掌がうすらぐ白昼へ、ゆく。

身体が好きなのですが、生の人間と触れあうのは怖いインポ野郎なので、言葉でもって色んなものを撫でています。

娼婦の肌は冷たく 前編


  祈りにとどまる

   
    0


 何を書くべきか、どのように書きたいか、という恣意を諦めて、書かざるをえないように書く。そのような態度をもって私はこれから、いくつかの対象について言葉を尽くしてみようと思う。そのための準備として、私は何に魅せられているのか、つまり、何を書こうとしているのかについて、曖昧ながら考えを巡らせたい。
 物心つく前から、中学生になる辺りまで、私は頻繁に喘息の発作で苦しめられた。今ではほとんど味わうことのなくなったそれは、ただ苦痛であるというよりも、いくらか恐怖に近いものを与える身体体験だった、と記憶している。意識は明らかなままに、呼吸がままならなくなる。息を吸って、吐く、普段はあまりに当然で不可視のその営みが、突如として鮮やかに感じられてくる。
 息を吸って、吐く、必死に。わずかの空気を取り込んでは、安堵する暇もなく吐き出し、吸う。意思はもはやない、苦しみの感覚と、呼吸の運動だけが、ある。
 なぜか、覚えている光景は、夜ばかりである。自室か、母のベッドか、病室か。いずれにしても静謐な空間にざらついた呼吸の音だけが這っている。その夜、私はきまって、自分の身体というものを感じた。身体を感じる、とは不思議な言い方になるが、しかしそのようにしか言い表しようがない。日常生活においては、ほとんど意思のままに動くこの身体が、意思の言うことをまるで聞かない、それどころか私から意思を蒸発させていく。身体とは、不能の状態において、ようやく浮かび上がるものなのだった。さきに、それこそ意識せず書いたように、私は、「発作で苦しむ」のでもなければ「発作に苦しめられる」のでもない。「発作で苦しめられる」のである。発作=身体は、ここに私としてある、しかし恣意的なものではない。主観的だが恣意的でないもの、それが身体なのである。
 日常生活に、身体が全く現出しないかと言えば、そうではない。発作によっていつの間にか開いた私の眼は、例えば掌を眺めてみても、そこに身体を見出す。指を動かそうとして動かす、その限りにおいて掌は身体ではない。しかし、五つに裂け、他にはあまり見られない色合いをしている……このような形状は身体である。私がこのように構想し、造形したのではないから。掌は、そしてひいては生まれ持ったこの肉体は、全く私の意を介さず、ただ在る。この、「ただ在る」という存在の仕方、それを私は「身体」と呼ぶ。
 さて、私はいくつかの「身体」について書いてゆくだろう。書かざるをえないように、つまり、欲情――身体的な衝動として。私は身体へ解剖のメスを入れたいのではない。身体へ祈りを捧げたいのだ。後に取り上げるであろう作品の数々、例えば川端康成の『匂う娘』も、いわば一個の偶像である。
 私は私の神と交わりたい一心だ。無限との非合理的な交感へ、合理に半ば侵されているこの「私」から。ただ在るモノと交感するために、私もただ在らねばならない。ただ湧く情動だけを手がかりに。あるいは、全てをその情動の鏡像へ歪めて。論理で編む詩としての批評へ。私は、議論の正当性を検証するために先行の言説を参照することはないだろう、そして自らの感ずるところを語る補助具としてしか他者の言葉を用いぬだろう。引用とは私にとって、外部との接続ではなく、内側の拡張である。それは情動の加速装置でもある。

批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!
    (小林秀雄『様々なる意匠』)

批評するとは自己を語ることである、他人の作品を使って自己を語ることである。
    (同上『アシルと亀の子』)

 
 しかし、ベルグソンをはじめとするフランス哲学、あるいは社会学などの諸学問などばかりが懐疑なのではない。身体を語ろうとする時、それを語ろうとすることそれ自体が、語るということの合理性が、既に懐疑であるから。ただ在るモノに、語る余地などないのだから。
「懐疑的に」、「語る」。公共的に、論ずる。
 私の身体にとって、私の論理だけが他者である。私は身体を論ずる。それは「祈り」でしかないだろう。
 なお公共性は不十分であろう。だから、私の書くものは、批評とは呼べぬ、批評未満である。
 しかしそれは、批評から外れはしない。




  皮膚の匂い


    1


 川端康成の『匂う娘』を読むたびに、なにか「冷たいやさしさ」を、私はそこから受けとる。その印象は、川端の文章には常にあるのだが、この小説は私の知る限りで最もそのやさしさを濃く滲ませるものである。
「冷たいやさしさ」、人間を抱擁するのでなしに、無視して通り過ぎるような性質のやさしさ。しかし、冷やかでありながらやさしいとは、どういうことなのだろう。
 それを考えるにあたって、まずはこの小説の全体を眺めてみることからでも始めるとしよう。主な登場人物は、二十四歳で勤めに出たばかりの光村という独身らしい男と、その「愛人」であり「十七歳の内気な少女」のあみ子、この二人である。しかし、話の骨格に食い込んでいる光村の詳細は、全くと言って良いほど描かれない。かわりにあみ子の「匂い」や、彼女の父母のことが描かれる。光村はいわば、あみ子を撫でていく視線である。彼女とその父母の物語――父の浮気とそれを気に病んだ母の自殺、その一切は光村に問われることで誘われるようにあみ子が口にする身の上話によって呼び起こされ、そこからゆるりと流れていくかたちで展開されるのだ。
 光村とあみ子が待ち合わせる場面から、この小説は生起する。二人はいつも「今の東京では珍しい古寺の門前」で待ち合わせる。あみ子が、旅館や料理店といった露骨な場所も、人通りの多い場所も恥じらうから。
 光村の車に、あみ子が乗り込む折に、匂いがほのめく。「化粧はしていないし、香料も使っていないから」、それはあみ子から香るものである。「髪の匂いではなくて、からだの匂い」であり、「強い匂いではないが、(…)あみ子が車にはいったとたんに匂う」。寺からどこか隠れられる場所へ行き、部屋の広さか光村の鼻の慣れか、匂いが感じられなくなるが、「しばらく抱きつづけている」うちに、また漂いはじめる。光村がそのことをあみ子の耳元に囁くと、恥じらって首の根まで赤らむ彼女のからだは、匂いを濃くする。
 ところで、この部分の小説作法というのは、果たして健常であろうか。この作法とは、文字通り小説の筆の運びのことで、ここまで私は説明の便宜のために、まず物語の登場人物をすべて洗い出し、話のつくりを大まかに捉えて、それから再びその端緒へいくらか細かく目を向けようとした。そういった私の加工によってかえって分かりにくくなっているが、この小説の作法はどこか異常なのである。というのも、書き出しからしばらく、筆はあみ子の匂いへと捧げられているのである。あみ子と光村のプロフィールや古寺についてのあれこれは、その後に思い出したように述べられていく。書き足されていくように。
 もちろん、プロットを語るよりも先に細部的な描写から始められる小説作品など、いくらでもある。全体を見渡せばその方が主流とも言えるかもしれない。しかしこの小説はそれらとは異質に感じられる。それが、物語のイントロとか、そういった域を超えているからだ。
 イントロとしての物語の生起は、いわば冒頭から物語を語るための、説明的でなしにいきなり物語へ引き摺りこむための口ぶりである。しかし先にもいったように、ここでは、物語を建築するに資する情報や要素のちりばめがなされていない、それは物語のパーツである感じがしない、そのような、ある観点からいえば無意味な描出が垂れ流される。「強細部」とでも呼ぶべき、あまりに細部的な、物語から過度に脈絡を絶たれた細部が、ここにある。
 イントロではない、イントロならば、その先のメロディーを効果的に演出する音階が揺らぎ、その後へとバトンを繋げるはずだ。しかしこれは、ある音楽の前に全く無関係の音楽が演奏されるような感じを放っているのである。そこにはあみ子も光村もいるし、匂いは全編を通底するものであるから、もちろんこの冒頭とそれ以降が全く無関係ではない。しかしそれなのに脈絡がない、モチーフだけが共有されて。まるで、ピアノで奏でられたAという楽曲のイントロから、ふっとピアノ曲Bのメロディーへと流れていくかのようなのである。どちらもピアノで演奏されるから、耳にはわずかに連関をもって聞こえてはくるが、しかしまるで違う。その連関は、一つの繋がりより、いくつもの断片の「響き合い」とでも表現するのが適切だ。
 あるいはこれは、物語が駆動する前夜の、主題の暗示のようなものとしての書き出しでも、決してない。主題などといった、小説の表面を超えた深層、抽象的なものを暗示するならば、それは具象としては壊れたものとなる。具象ではない何かを語っている容貌を示すはずなのだ、その違和感が見えやすいにしても、見えにくいにしても。ここには、それが全く見られない。ただ滑らかな具象が流麗に描かれているだけである。このような滑らかな言葉に、暗示が付け入る隙はない。それは具象のひしめく空間であって、抽象は蒸発してしまう。
 このような作法を私は異常といっているのである。しかしこの判断には、「それは異常ではなく劣悪なのだ」という批判も可能であろう。物語に結びついた効果を、何ら与えぬ描写で書き出される小説とは、単に拙い作品に過ぎぬのではないか……。
 そうでないという予感が、私にはある。いや、正確にいえば、確かに単なる失敗なのかもしれない。しかしその失敗が、凡百の成功を超えたものになっている。この細部の強靭さには、なにかがある。それは「冷たいやさしさ」と密接に結びついている。このことについては、後に詳しく見ていこう。
 さて、話を小説の全体を把握することへ戻す。少女のあみ子が、待ち合わせに適するような古寺を知っていたのはなぜか。それは、そこが彼女の家の昔からの菩提寺だからであった。つまり、彼女が十五の時に自殺した母が眠る空間である。
 彼女はそこを待ち合わせの場所に選ぶ。そのことに、別に深い意味はないようである。そもそも彼女は墓に大した思い入れがない。

「わたしはお墓などいうものを、あまり信じないんです。母は墓の下にいるよりも、わたしのうちにいますわ。わたしが生きていることのうちに、母がいますわ。光村さんがわたしをはじめて抱いて下さった時に、ふっと、わたしの母もいっしょに抱かれたような気がしたんですよ。(…)

 彼女は思い入れの乏しい墓で待ち合わせて、思い入れの深いからだを明け渡しているのである。この、母と光村の二人に対して身を預けすぎているような、二重に危うい告白を、光村は沈黙でもってかわす。彼にとって、そのようなものは重荷に過ぎる。
 続けてあみ子は、母が自分の結婚を心待ちにしていたこと、それへの反発で「結婚なんぞしたく」ないように感じていたことを、とりとめなく話す。光村は、はぐらかすように言う。

「あみ子さんは十五のころから、もうあみ子さんの匂いがしていたの?」
「知らないわ。(…)話をそらさないで……。わたしは自分が匂うから、光村さんに愛されているんですか。」
「(…)あみ子さんを愛しているから、あみ子さんが僕に匂い出すんだよ。」
「わたしはその逆だと思います。光村さんにわたしの匂いのことを言われると、こんな恥ずかしいことはないけれど、こんなうれしいこともないの。ほかの男の人にも、わたしがもし同じような匂いがするのなら、死んでしまいたいと思いますわ。」
「匂いをあらわす言葉は少くて、貧しくて、あみ子さんの匂いも的確に現わせないけれども、何万人の女に一人の女の匂いとは信じる。」
「(…)わたしの匂いは、母ゆずりなのかもしれませんわ。母が先きにお風呂にはいっていて、わたしがあとからはいってゆくと、匂いがこもっていたようですわ。(…)

 その母は、父の帰りが他の女のために遅くなる夜、きまって眠り薬を飲んだ。そのような夜が重なるうちに、痩せ衰え、昼でも気を空ろにするようになって、匂いも多分は失われて来ているだろうと一緒に風呂に入ることもなくなったがあみ子が推察する折になって、到頭死んだ。医師は、家の名誉も考えてだろうか、「眠り薬の分量をまちがえたのだろう」と診断した。あみ子は信じなかった。父もまた信じてはいないらしかった。
 父母へのあみ子の感情は、単純ではなかった。もちろん、母へ同情することはしても、惨めに思う気持ちさえ、ないではなかった。それは、「少女のあみ子」の「生命のあふれ」であった。そしてその純潔が、「母の死によっていくらかかげった」。
 対して父には、言うまでもなく憤りを抱きながら、やはり頼みにする心もあるし、母の死後、隣の部屋で寝てほしいと頼まれれば、「さびしいのだろう、心を責められるのだろう」と従いもした。しかし、このようないたわりも、やがて潰える、父への失望によって。父は母の死去からまだ半年あまり過ぎていないというのに、三人の女をつくる。
 このような、母の自殺の顛末、そしてその後のことが、光村に誘い出されるように語られてから、果たして小説は終結部へ向かうのである。最後に淡々と、あみ子と光村の、墓へと抱く感情が叙される。

 あみ子が光村と待ち合わせる少しの時間に、古寺の門前をえらびながら、母の墓、芝家先祖代々の墓に参ろうとしないのは、母の死を純粋にかなしめないせいでもあった。また、母が一人の女にたいする嫉妬に苦しんだのに、(…)わずかの時間に父の女が三人にふえたことなども、あみ子を墓前に立つのをためらわせるわけだった。

 ここで私は、あみ子が、女の数を問題にしているように見えることに注意しておきたい。もちろん、母の死後まもなく女が増えたことは、おぞましいことであろう。しかし、「一人ならいざ知らず三人も」とでも、いいたげではないだろうか。詳しくは後に触れることになろうからひとまず置くが、ここにも私は、この小説の冷酷さの影を見るのである。
 光村はよりはっきりと冷ややかである。

光村もまだ二十四歳で、勤めに出たばかりの若さだから、愛人の家の墓にそう心を誘われるわけではなかった。(…)人目の少いのが取柄ぐらいにしか思っていなかった。


   2


 冒頭部の、物語からの浮遊。これが何か大きな意味を持っているという予感が、私にはある。
 この部分は、この浮遊は、なにに因るか。これを考えるにあたって、私はなによりもまず、当該部分を引用すべきかと思ったが、やめた。なぜか。引用するにも足らぬのである。待ち合わせて情事へ入る過程での、あみ子の匂いの濃淡が、麗しく描かれているだけなのだから。
 私はなぜ惹かれているか。物語全体の構造としては、父母の反復としての光村とあみ子、と大雑把にはまとめられるとして、そこにも冷たさは認められるが、しかし、全編を読み終えて構造を眺望する時よりもこの無意味な冒頭を撫でているほうが深い冷たさが滲んでくるのはどういうわけか。
 ただ匂いのみを綴る色めいた言葉の連なり。「強細部」。
 それは「物語」への冷淡な態度である、とはいえないか。匂い――しかも、この場合「からだの匂い」とは、文字通り「肉体」である。「肉体」とは、一体なんであるかといえば、ただこのように在るモノ、である。掌を眺めてみて、五本に裂けていることに何の理由も見つけられないように、「からだの匂い」も、不随意にただ在る。
 そのような、モノとしての言葉、そこに終始する言葉。それは、何も語らず沈黙している。決して、「暗示」でも「物語」でもあり得ない。それはただ「在る」のであって、ゆえに何事も「示す」ことはしないし、「語る」ことができない。
 私は、たとえば私の掌がこのような形態と色合いで存在していることに、その乾いた味気なさに突き放されるのとちょうど等しく、この冒頭部が冷たい。このことを言い換えてみよう。つまり、「からだの匂い」へ捧げられた言葉たちそれ自体が、「からだの匂い」に似た素っ気なさを帯びている。
 しかしここで、一つ疑わしいことがある。果たして、冷たいのは冒頭だけであったか。それは小説全体を貫く生理ではなかったか。
 このような疑いが、どこから出てくるか。それは、私がここまで扱った部分が、冒頭部分に過ぎぬからである。つまり、「冒頭」というからには、その先がある。物語は生起しなかった。それなのに小説は続く。ならばどのように続く? この問いと、冷たさが小説全体に漂っているのではないかという疑いとは、一つのものである。生起しなかったはずの物語が、しかし不能なままに、続いてゆく。始まり直しもしない、いや、そのようなことは不可能なのだ。なぜなら、語り始められる瞬間に「からだの匂い」について書いてしまったこの小説は、どれだけ後から物語としての構造を取り返そうとしても、起点に断片を抱えてしまった。あらかじめ物語として脱臼した。
 ならば、その後にたちあらわれてくるのは、冒頭と同じような性質のものでしかありえない。物語を構築しない、なにかの暗示を孕まない、ただ在る具象。それが連なる。そこでは、モチーフは共通する。だから何らかの連続がそこにある。その連続が物語の予感ともなる。しかし言葉は、整合的建築物のための資材として、まだなんの意味も持たない断片のままで、散らばっている。散らばり続ける。
 冒頭の後はこのように続く。

 あみ子は十七歳の内気な少女であったから、光村と待ち合わせるのに、旅館とか料理屋とかはいやがった。(…)待ち合わせの場所は今の東京にはめずらしい古寺の門前が習わしとなった。

ありふれた恥じらいについて書かれた断片の次には、こう続く。

 石段を五段上って門になるが、その門の前の右にかえでの大木が一本あった。(…)

 断片の連続としてのこの小説は、いままで見てきたように「からだの匂い」にはじまってあみ子の待ち合わせについて書かれ、古寺の描写へと流れる。ここに物語的連続はない。つまり、断片から断片への飛躍には、事件の連動が欠けているのである。断片の繋がりが事件を駆動するなど、ここではありえない、断片はただぽんと浮かんでいる。これは、物語るための飛躍ではなくて、連想としての飛躍である。この連続は、なんらかの意志に貫かれず、ただ在る。物語ではなく、肉体として。モノとして。
 この奇妙な性質の連続は、小説全体に繁茂している。作中において紙幅としては最も多く語られる父母のことも、あみ子が光村へ母の匂いについて話した後に、

 しかし、あみ子の母は自殺したのであった。

 と書き出される。ここでもやはり、断片がただ在るではないか。「しかし」という、断片の間を接続する語が、母の匂いという想念の美しさと自殺の禍々しさとを逆接している、その二つを逆接しているに過ぎぬことからも、連続の肉体性がはっきりと見られる。接続詞が、物語的な事件の推移ではなく、想念の移ろいに奉仕する。
 私が感ずる冷たさとは、「強細部」の手触りであった。そしてさらに言えば、そのようなものの集積であるからこそ、本作は全体を通して冷やかな体温を帯びるのである。


   3


 小説の形態のみが肉体的なのではない。そこで描かれる人間もまた肉体的なのである。人間が肉体的とは、当然のことを言っているようだが、私はなにもあみ子や光村を肉体至上主義的な人物だとでも言いたいのではない。この「肉体的」とは、換言すれば「非人間的」なのである。このような小説において人間は、精神を剥奪され、ただ在るモノとして存在せしめられるのである。それはまるで「娼婦」に似て。
 人間から遠く離れた「娼婦的」な登場人物とは、どのようなものか。この問いはすなわち、肉体的であるとは如何なることか、という問いと重なる。
 ただこのように在るモノ、掌を眺めてみて、五本に裂けていることに何の理由も見つけられないように、不随意にただ在るもの。それが肉体である。そのような存在の仕方とは……。

「(…)わたしは自分が匂うから、光村さんに愛されているんですか。」
「ばかなことを……。あみ子さんを愛しているから、あみ子さんが僕に匂い出すんだよ。」
「わたしはその逆だと思います。光村さんにわたしの匂いのことを言われると、こんな恥ずかしいことはないけれど、こんなうれしいこともないの。(…)

 この小説においては、愛という精神性でさえ、匂いとして発露する。言葉でもなければ、行動でもなく。これが何を意味するか。「愛している」という言葉でも、それを示す行動でもなく、たんに匂いによってそれを嗅ぎ取らせる存在とは、これは全く人間的ではない。肉体としてしか存在していないのだから。このやりとりが、どこか睦言めくのは、そういう理由である。精神が剥奪されて肉体が響き合うところに、なまめかしさが宿らざるをえない。
 ここで見落としてはならぬのは、あみ子自身にも、匂いの出るわけがはっきりと自覚されているのではないということである。曖昧に、しかし愛のためというようにしか感覚的には読めぬかたちで書かれながらも、そうと言明はしない。正確には「言明しない」のではなく「言明されえない」というべきなのだ。なぜなら、匂いとは肉体だからである。肉体、不如意なもの。匂いとは、あみ子にはどうにもならぬ、不如意なものとして存在している。だから、その理由を愛であるとはあみ子にも言えない。匂いは、ただ発せられる。
 つまりあみ子は思いのままに愛を語ることができないのだ、二重の意味で。愛は匂いでしかない、さらに匂いは肉体でしかない。このような意味で、光村を愛するあみ子の存在性は娼婦的なものとなる。匂いでしかあれぬもの、あみ子。
 しかも、右の引用部は、母への連想へ飛躍してさえゆく。

「(…)わたしの匂いは、母ゆずりなのかもしれませんわ。母が先きにお風呂にはいっていて、わたしがあとからはいってゆくと、匂いがこもっていたようですわ。光村さんにわたしの匂いのことを言われてみて、あれが母の匂いだったのかしらと思い出すの。母の膝に抱かれて洗ってもらうのが、うっとりうれしかったわ。」

 妖しいような男女のやりとりから、かくのごとき断片へ移ろう筆を、禍々しいほどになまめかしく私は感じる。睦言のはずみに母を偲ぶこと……ここには人間への苛烈な蹂躙がありはしないか。
 あみ子ばかりが娼婦なのではないのだ。娘に、匂いによって思い出される彼女の母も、娼婦として存在させられている。匂いによって想起されるとは、肉体へ存在を還されているということなのだから。想起されるものとしてのみこの断片に存在を許されているあみ子の母の、娘に等しい娼婦性は、この断片に、先に引用した光村とあみ子のやりとりがどことなくなまめかしかったことを併せて見ても、よりはっきりすると思う。なまめかしいのは、そこに肉体が、肉体以外を疎外することによって、まざまざと現れていたからである。そして、このあみ子の母の記憶は、睦言をこぼしたばかりの舌の上に、そのまだ濡れたままの赤い肉の表皮に、漂ったのである。
 あみ子の母が娼婦であること。これは言い換えれば、愛と同様に親子なる関係性が、娼婦と客の交わりのようでしかあれぬということなのだ(補足しておけば、娼婦に対しては客も精神を贈る余地がないから、娼婦でしかあれない。つまり娼婦と客とは、いわば二人の娼婦ではないか)。この小説において、愛も親子も、このような冷たいものとしてのみ存在しえる。
 さて、ここまで少し、人間が肉体でしかない事態について私は考えた。この小説を材料として。
 ここから更に考えを深めたい。そのような事態へ、もっと目を凝らしたい。そのために『匂う娘』から一端離れてみたいと思う。人間が消え肉体が氾濫する事態の、他のかたちへ、視線を向けよう。その作業を通過することによって、この小説もより把握されることだろう。



  【続く】