掌がうすらぐ白昼へ、ゆく。

身体が好きなのですが、生の人間と触れあうのは怖いインポ野郎なので、言葉でもって色んなものを撫でています。

ままならないままうつくしいまま――川端康成「生命の樹」

 たとえば、バイトの出勤前に憂鬱な気分を抱きながら読むと面白い小説、職場へ何の連絡もなしに欠勤した後でヤケッパチじみた倦怠を覚えながら読むと面白い小説、というのがある。要はなんとか踏み止まるところにおいて深まる味わいと、全てを投げ出したところに初めて見えてくる味わいの二つがある、ということだ。これから語る作品は後者に類する。
 こちらへ区分される小説とはどういったものか。バイトを無断欠勤して、この先も行かないだろうとぼんやりした決心を持て余す、あるいは、ほんの荒んだ気まぐれのままに好意はおろか悪意すら向けていない金で買った誰かの身体を石ころのように乾いたその肌を、欠伸をかみ殺して撫でながら、殺したいほど嫌いな相手を求めるほうがまだ良かったのではないだろうかなどとどこか我ながら暢気に首を傾げる……そういう瞬間にこそ染み入る小説とは一体どのようなものなのだろうか。
 どうしようもないままならなさを、ままならないままにしていてくれる空ろとは。

   


 ままならなさは如何にして治療されうるか。ままならなさはどこから生れて来るか。
 そういうことについては書きたくない。ここでは、不能であることを最初から前提としたい。そしてもっといえば、その改善ではなく、居直ること、不能であるままに救われる道を探りたいのである。萎びた性器を股にぶら下げて、効果的な薬剤や治療を探し求めるのではなく、萎びたまま得られる快楽を待ち望む。たとえば、夢精を祈り幾度も眠る。
 なぜなら、そもそも、もがけないという不可能性こそが不能だということだから。不能であることについて語るのは、はじめから何もかもを諦めることなのだ。しかしそれは、救われてはいけないということでは、もちろんない。迷惑がられ、軽蔑され、嘲笑われていても、救われていい。

   


 ただ快楽を摂取するということを、私は欲する。不能なまま、それでも、あるいはそれゆえに可能となるような快楽を、舐めていたい。
 不能者の快楽主義――ここにおいて、不能であることは快楽の性質を限定するとともに、快楽主義の根拠でもある。つまり、全てがままならないのだ、欲望に身を流されていくより仕方ないのだ。それが不能だ。これ以外にどのような生理が可能であろうか。この意味では、もはや私の拠って立つのは快楽「主義」ですらない。選択したのではない。ただなにもかもがままならない、身は流れていく、こういう状態が勝手に存在するだけのことだ。より深い悦楽に酔い痴れることを、求めずにはいられない。
 しかし遂に、もしも快楽の極致において、怠惰であることの不安や苦痛さえ忘れ去ることができるのなら。不具の身体で崇高を享楽できるのなら……。

   


 川端康成の短編「生命の樹」を読むたび、私はそこに何も述べられていないことに、いつも驚く。
 随所に流れ込んでくる自然によって、なにもかもはぼかされていく。物語も、心理も、意志も、ままならない。ぼんやりと漂っては、自然に包まれる。
 すべては自然の描出へ溶かしこまれる。
 花や日の光のように、ただあるもの、として、存在させられるのである。涙が星の光になり、星の光が涙となる。
 深層を剥奪し、思弁を殺し、ただ物としての物だけの氾濫を誘発せずにはおかぬ、自然という魔。
 曖昧さは、もはやない。すべてが冷やかに存在している。作中にはなにも「述べられて」いない、なにもかもは「描かれて」いるに過ぎないのだ。
 ままならない。ただあるに過ぎない。放恣であるしかない。その辛苦を美へ昇華すること、不具の極まりにたとえば少女の死体をみること。なにもままならない、というふうに一切を引き受ける眼には、何物も、美しく映る。ままならない、ただある、という純粋さによって。
生命の樹」とは、全てを純化する祈り、あるいは呪いなのだ。
 戦争も、恋も、生も死も、樹々に飲みこまれて「自ずと然り」に、澄み透る。

   


 全ては冒頭にありありと示されている。
 戦時中、特攻隊員たちが拠点とした基地の水交社にいた啓子が、死んだいった特攻隊員・植木への恋慕から自分も死ぬことを想いつつ、命拾いして復員した隊員の寺村に連れられて植木の母へ会いに行く。そのような政治的でもあると言える作品が、

 今年の春もやはり、春雨のやわらかく煙る日、春霞ののどかにたなびく日は、一日もなかった。
 あの春の日は、日本からうしなわれてしまったのだろうか。
 去年までは戦争のせいで、季節も狂っているのかとも思っていた。しかし、戦争が終わって迎える今年の春にも、あの日本の春らしい空はかえってこない。

 このように書き出されることに、私はたちまち歓喜するのだ。戦争の狂騒も、残留する戦禍も、春の空へかえされる。
 しかしこれだけでは純化には足りない。このような描かれ方では、自然は心象であり一つの象徴であると読めてしまうからだ。むしろそう読むのが普通であろう。そして、そのように読まれるならば、自然はただあるものとしては存在しない。心理や物語の奴隷へ堕落する。そこにはもはや、純粋に物として屹立している、ままならない物体というのはありえない。なすがままになる、あるいはなすがままであろうとする存在が、駆動してしまう。
 先の引用部から続いて、さらに恋も空へかえされるが、それでもまだ自然はその真価を発揮しない。

 植木さんたち、あの特攻隊の若い人々が空から還って来ないように……。植木さんたちと共にいた私の、あの愛の日が返って来ないように……。

 ほとんど陳腐な感傷も手伝って、自然はやはり象徴でしかないのではないか、と疑いたくもなる。しかし、注意深く立ち止まってみれば、この文章にもおそろしいものとしての自然がちらりとのぞいているではないか。
 先からこの引用部に至って、空というものの、その言葉の手触りが微妙に変化しているのを見落としてはいけない。戦禍をそこに映じている限りでは、空は象徴としての空であって、空そのものではない。しかし、特攻隊員が行きて還らぬ場所、という意味において空は、散華の象徴のようでもありながら同時に、彼らが飛び立った先、そしてそこからは二度と降下してこなかった地点、という純粋な位置としての空でもあるのだ。
 ここに仮に海という語を置くならば、それは象徴としてしか機能しない。しかし空は、この世界から手の届かない、生から遠い死の象徴でもありながら、端的な事実として彼らの飛行した場所でもある。
 このように、ただあるものとして、空が広がる、すると、先の引用部において空にかえされた戦争もまた、思うがままに起こったことではなしに、ただあるもへと、その容貌を変える。いわば空の純粋さに包み込まれるようにして。
 先までとは、空と戦争の位置が逆転した。
 空は空としてある。日は光る。雲が流れる。恋も彼らの死もまた然りだ。すべてが純化される。彼らが消えた空はただある、ゆえに、彼らもただ生きただ死んだのだった。すべてはままならなかった。
 ここで、なぜ空が戦争を包み込むのか、戦争が空を隷属しないのか、と問う人がいるかもしれない。しかし、空の青いことを一体誰が疑えよう? 戦争を人間的に問うより、空を眺めるほうがやさしいという、ただそれだけのことでしかないのだ。
 空の青さを疑えぬ眼、素朴な、ほとんど痴呆じみた、うっとりとした眼には全てが、ただある。この眼は空を『春雨のやわらかく煙る』『春霞ののどかにたなびく』というようにしか見ない。緻密な観察はない、観察とは見るのではなく読む、描くのではなく述べる、ままならないものではなく思うがままのものだから。あるように見ることに止まる眼。それこそが戦争を自然のように見得る眼なのである。


   

 止まる言葉、何事も述べぬ言葉、ままならない言葉――それは全てを純化する。自然という純粋物とともに繁茂するようにして語られていく万物の透明化、つまりそれは言語の問題に引き込んで言えば、そのような境における言葉の物化である。
 言葉は物となる。意味を脱する、のではない。音へいたるのではない。それは不純である。言葉は意味を持つから言葉なのだ。
 私が本作にみる言葉とは、意味を持ちながらしかし何事も述べぬ、解釈を拒んで感触しか持たない、そういう物体なのである。それはままならないものをままならないままに表象する。

 こんど、寺村さんに連れられて東京に来る東海道でも、関ヶ原あたりの柿の新芽、遠江の槙垣の新芽、駿河の茶畑の新芽などを、私は一心に見入っていた。(中略)
 私は木々の新芽を一心に見入っていたと書いたが、無心に見入っていたと言った方がいいかもしれない。私は自然の死ぬつもりさえ忘れて、新芽の世界を眺めていたのだった。
 しかし、寺村さんに呼ばれて、自分が死ぬつもりでいることに気がついてみると、自然がこんなにあざやかに見えるのは、私の心にある死のせいかもしれなかった。

 たとえばこのような部分に、言葉の物化は顕著だ。
 一心に見入っていた、とおもえば無心になる、しかしその無心も「かもしれない」と、控えめに留保される。とはいえ、その後に続く一文で無心であることはほとんど自明のこととなっている。そこに重ねるように、またしても「かもしれない」というかたちで曖昧に思い巡る死。
 文脈の攪乱と「かもしれない」の氾濫は、言葉の不安定な溶け合いを招来する。しかし、先にもいったようにこの文章には独特の鮮明さがあり、ともに不鮮明さもあり、曖昧なようでいてどこかはっきりしている。攪乱と氾濫、鮮明な。
 もはや不安定ではない、安定した方向をもっている、しかし曖昧さを孕みながら。
 言葉が物化する。直線的な文章が引き起こす「理解」をかわし、脱意味化した言葉が意図せず呼び込んでしまう「解釈」をあらかじめ殺すのである。ここに、意味しか意味しない言葉、ただあるものとしての言葉があらわれてくる。言葉は構造として建築されていくのでも、解体されていくのでもない。浮かんでは消えるのだ。
 このような言葉に私は、読むのではなく触れる。その奥へ進まない、進めない、深層などというものは存在しないのだから。手といわれれば手であり、首といわれれば首でしかない。私はその意味を考えるのではなく、その言葉の流れに身を任す。意味ではなく印象に溺れる。『新芽の世界』に躍るのは、葉と光、ただそれだけだ。希望でも絶望でも、未来でも過去でも、決してない。
 死の響きのなかで瑞々しい葉と光が眩い。美しい。

「星が出てるなあ。これが星の見納めだとは、どうしても思えんなあ。」と、空を見上げならおっしゃった植木さんが思い出される。
 植木さんには、ほんとうにそれが、星の見納めだった。
 植木さんはその明くる朝、沖縄の海に出撃なさった。(中略)
 植木さんが悲しそうにおっしゃったわけではなかった。無邪気な調子だった。御自身で御自身が合点ゆかぬような風で、
「どうもおかしいね。死ぬような気が、なにもせんじゃないか。星がたんと光ってやがら。」
「そうよ、そうよ。」と、私は追いすがるように言った。胸がふるえた。
  いいことよ、ちっとも御遠慮なさらないで、手荒く乱暴なさいよ、とでも言いたいのが、私の「そうよ、そうよ。」という声だったらしい。私は抱きすくめられるのを待っていたようだった。
 悲しみに突き刺された私の胸に、なぜまた突然あやしい喜びが突き上がって来たのだろうか。

   


 このような境においては、言うまでもなく、人間の存在それ自体もまた純粋である。ただあるものでしかない人間、ままならない人間。
 主人公の啓子も自然に等しい。彼女は不思議に処女と娼婦の容貌をあらわしながら、しかし一つの身体として、ただある。
 先の引用部から流れてゆくと、このような文章に行き着く。

 明日死ぬお方だから、なにをなさってもいいと、私は思ったようなのに、植木さんは、明日死ぬ身だから、なにもしないと、お思いになったのだろうか。
 もうどうするもしないもない、植木さんは、ただ、星空と同じように私を感じていらしたのだろうか。それならなおのこと、そのように美しい私は、一生に二度とないように思う。

 これは果たして処女か娼婦か。清純な一本気でもあり、すべてを飲みこもうとする放恣でもある。揺らぐ。そのことによって、どのようにも「理解」されず、どのような回路にも回収されない。
 そして、すべては「私」によって囁かれていることも忘れてはならない。ここには肉声がある。一人称の官能性が、このような作品においてこのような言葉と溶け合う時に、真に光り輝く。
 どのように、なぜ、と問うことができない物体。この身体。肉声。
 揺らぐことによって身体と化した言葉を、肉声が受胎する。啓子という存在は、肉声であることによって、さらに存在を純化される。私は肉声を前にして、その奥へ進むことが叶わない。声に意味などない、ただ温度と匂いがあるのみなのだ。
 先の引用部は、以下のように続く。ややもすれば唐突ともいえるこの移ろいは、しかし論理的な脈絡ではなく、感性的な、ただあるとでもいうべき性質の連想に貫かれている。

 小山の多い、あの基地の五月は、新緑が私の心にしみた。植木さんたちの隊へ行く野道の溝に垂れつらなる、野いばらの花にも、植木さんたちの宿舎になっている、学校の庭の栴檀の花にも、私は目を見張ったものだ。
 どうして、自然がこんなに美しいのだろう。若い方々が死に飛び立ってゆく土地で……。

 死の匂いの色濃いこの地で、啓子は植木に連れられるがまま、娼家にまで足を踏み入れる。なにごともなく、しかしけがれた遊びの横顔をちらと見て、娼婦から子供扱いされ恥と屈辱だけはうけて、童貞処女のまま娼家を出る。
 啓子はその日を、電車で自死を想いながら追憶する。

「君は、ここの女を軽蔑するかい?」
「いいえ。――罪なき者石もて……。」
「そうか。僕は幼稚な感傷家で、虫のいい夢想家だ。ここから飛び立つ僕らが、汚してゆくたびに、その女は浄化されていって、おしまいに昇天しやせんかと、思ったりするんだがね。」
 私はあきれたけれど、これも後では、そんなことをおっしゃったお方のために、私という女一人くらい、あとを慕って行ってもいいような気がする。
 それなら、あの時、私を昇天させて下さればよかりそうなものに。私はなにも惜しくなかった。私はそんなに清い娘ではなかった。
 あの夜、私は水交社に帰って、ぐったりつかれきって、朝まで眠れなかった。なぜ、私を殺しておしまいにならなかったのかと、お恨みしていた。(中略)
 あれは植木さんのお心の突発事件だった。前後のお考えはなかった。それでなお、私はありがたい。愛の噴火としておこう。

 愛は噴火であってこそ美しい。その刹那、愛は、ただ、愛でしかなくなる。愛だけが中空に浮かぶ。根のない華のように。影のない光のように。心ない涙のように。ままならず、ただそうあるしかなかったという境においてこそ、全ては純粋なのだ。
 さらに、啓子の愛までも軽やかである。

 私にだって、その後、基地の星の下でも、近江の家の台所でも、こんな噴火があったではないか。私をさしあげていいと思ったり、死のうと思ったり……。

 彼女は自死を想う。しかし既に自死は為されたといえよう。はじめから自などというものはなかったのだから。既に死に、そのことでかえって真の生であるこの身体が思い巡る死とは、なんと美しいか。一粒の涙が儚く流れている。しかし、それはふっと地に落ちるよりもはやく、虚空に凍てつく。
 極めて小さなこの結晶に、空の青と光が透けるのである。


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