掌がうすらぐ白昼へ、ゆく。

身体が好きなのですが、生の人間と触れあうのは怖いインポ野郎なので、言葉でもって色んなものを撫でています。

窪んだ舌を撫でるーー京佳ファースト写真集「Thankyouka!!!」における母乳の匂い



アイドル写真集は無数に流通しているが、アイドル写真展というものは皆無に等しい。少なくとも、あったとして、私は足を運ばない。なぜなら、写真集という媒体は手に触れることができ、写真展ではそうはいかぬからだ。

 アイドルという、記号(スター)と生身(生活者)の間を漂う奇妙な身体を、まさぐる。それがアイドル写真集である。

 記号と呼ぶには生ぐさく、生身と呼ぶには媚態という一種の類型へ洗練されている彼女らの身体は、欲望されるための身体といえよう。この宙吊りが満たすのは、欲望のうちでも、最も怠惰な性質のものである。つまり本能的な欲情である。獣としての欲情、あるいは、文化的に物心つく前から刷り込まれた欲情である。

 それは限りなく身体的な欲望だ、怠惰であるとは身体的であるということだ。

 ゆえに、アイドル写真は、額に縁どられ一定の距離をもって眺められてはならない。距離は身体を冷却し、精神の漲る空白である。たとえ我々が距離において身体を熱する時があるとしても、精神の、思考の駆動した末に、身体が召喚されるのだ。これは身体的快楽である、と理解することによって。

 より怠惰であることを求めて。

 だから、アイドル写真は紙として流通し、この掌で直に撫でられねばならない。その時、彼女らの身体は怠惰なままに貪られる。欲情はいつの間にかやってくる。いかなる苦労もなく引き起こされる。その欲情は、いかなる思考も解釈も、必要としない。私はただ撫でているだけで良い。撫でられるものとしてのアイドルの身体は、欲情を満たす物それ自体であって、その他の何物でもない。


 


 写真でなければいけないのか。映像では駄目か。駄目だ、触れられない。写真集は紙という物質であることに加えて、瞬間である。映像のように、時間なのではない。時間とは触れられぬものだ。私たちは時間に触れられない。

 触れる、ということは瞬間だ。十秒分の痛み、などというものはないのだから。一瞬の痛みが、たまたま十秒続くだけのことである。触覚はいつも瞬間のうちにある。熱も、痛みも、疼きも。女体の肌のなめらかさも。この意味でも写真とは触れられるもの、怠惰に欲望されるものなのである。


   


 アイドルは、疑似恋愛の装置に成り下がる時、その魅惑を失う。

 いや、もっといえば、恋愛のみならずどのような関係性も彼女らの神聖とは結ぶつかぬ。たとえ疑似でない恋愛であっても、あるいは友情であっても、応援であっても……。

 彼女らは、直接的なコミュニケーションの次元ではなく、写真のように間接的な形式において触れられねばならない。触れる、ということの快楽は、皮肉にも、直に彼女らの身体に触れることでは生まれえないのだ。もし仮に、握手どころか性交を赦すアイドルがいたとしても同じことだ。接触のレベルの問題ではなく、直接に触れてはならないのだ。その時、我々は彼女らをまなざすだけでは済まず、まなざされるから。関係性が発生する。

 あらゆる関係性なるものはアイドルをけがす。なぜなら、その欲望されるための身体とは、関係性に絡めとられてそこに憐れみであれ憎しみであれ人間的な何物かが介在すると、欲望されるためだけに存在するのでなくなるから。関係性を夢見て、身体の奥へ人格を仮想した途端に、彼女らの眼はこちらを見る。見られるだけの身体でなくなる。欲望されるための身体ではない、人間になる。物から、人間へ。

 だから、できるだけ怠惰に。ただ欲望せよ。ただ待ち惚けよ。

 さすれば、いや、さすればこそと言おう、我々は彼女らを存分に撫でられる。我々の手はふり払われはしない。握り返されぬことを悲しまずとも良い、握り返されることはふり払われることと同じだ。握り返された私の手は、もはや怠惰に、思うままに撫でまわすことを許されないだろう。撫でられたい欲望と、撫でたい欲望の、折れ合いが始まる。

 何度でも言おう。怠惰でなければならない。どうせ怠惰でしかあれぬのなら。

 足掻くことはやめて、安らかな午睡につかないか? 

 そして、白昼の光に溢れた夢のなかへ。


   


 帯にこんなキャッチコビーを掲げる写真集がある。

『オトコゴコロを一番わかってる17歳。』

 夢みるアドレセンスのメンバーである京佳のファースト写真集である。そこに映し出された彼女の姿を一目見れば、このコピーにも肯ける。

 幼い顔つき、記号的なほどに均整のとれた眼、そのとろりとした円み、また豊かな肉づき、穏やかに広く大きく膨らんだ乳房、しかし成熟という強靭な眩さの一歩手前にある身体、母なるものではなくむしろ幼児を連想させるような、柔らかさ。

 透明な痩身の幼さは少女の幼さであり、彼女のような輪郭の膨らむ身体の幼さは幼児の幼さだ。女体は生まれ落ちて幼児から少女へ至り、そののち思春期に輪郭の溶解によって膨らんでゆく、そしてやがて、新たな輪郭をもつ、成熟する。この思春期=溶解期に、彼女らはいわば幼児へ戻る。母乳の甘やかな匂いを纏う、しかしそれは母の乳房でなしに、自らの乳房によって。

 ならば幼児として、あるいは最も幼い母として、彼女の身体は私の欲望を抱きとめる虚ろな穴となるか。否、なぜなら限りない受容は、関係性の萌芽となるから。やさしさを向けられる時、やさしさを向けられる私が生まれてしまう。

 私はいかなる目にも見られたくはないのだ。どれほど温かな眼差しにも。それは温かく見守られるべき私を要求するから。


   


 しばらくページをめくるうち、はじめて笑顔の写真がある。ここで私は、手を止めざるをえない。彼女の口元に鋭い歯が、八重歯がのぞいている。

 幼児的な、球体的な身体から、隠されていた鋭利なものが露出する。

 突如として幼児性は破れる。内側から鋭利なものに切り裂かれる。彼女の赤い舌の両側は八重歯によって窪んでいる。溶解した身体は、像を結ぶことないままに、柔らかなままに、しかし鋭さが皮膚の裏に横たわることで金属的な冷やかさを薄く帯びる。丸みと尖りが混じり合い、溶けたまま急速に冷凍される。いわば亡骸になる。生々しくも、冷やかな。冷たくも、生々しく。彼女の身体は八重歯をのぞかせるとき、死に近づく。つまり、関係性を拒絶するのだ。ここにおいて遂にこの身体は欲望されるための身体として完成した。

 丸み、幼児、柔らかさ、母乳の匂い。それは最も根源的な、怠惰な媚態のかたちといっても良い。幼さとは媚態である。しかしページをめくると、忘れかけた頃にあらわれる、媚びをえぐるもの、鋭さ、冷たさとしての八重歯。

 ならば彼女の身体は、媚態性を喪ったものとしてあるか。そうではない。ここにおいてその身体は、全く新たな誘惑を獲得するのだ。関係性を拒絶し、決定的に繋がることなく、しかしなおも媚び続けるのだから。柔らかさと鋭さは互いを無化しない。柔和な鋭さ、鋭利な柔らかさとして、彼女の身体は、関係性を否定することで欲望を放埓に受け入れるだけの、虚ろな穴となるのだ。

 それは窪んだ舌に似ている。

 欲望の抱擁がかえって関係性を萌してしまうことを、彼女の身体は知っている。私にただ欲望されるためだけの身体であるために、私を拒む。柔らかい皮膚の裏に冷やかさを匂わせる。私は欲望のまま、思うがまま身体に触れられる。決して抱きとめられることのないという虚しい安らぎのなかで。まるで娼婦と戯れるように。


   


 ここで断っておくべきかもしれない。私は怠惰でありたいからこそ、冷やかさに常に怯えていたいのだと。

 ある人は言うかもしれない、なぜ彼女の身体がお前を拒まねばならぬのか、お前が拒みながら酔いしれていればよいではないか、と。しかし繰り返すが、私は怠惰でありたいのである。そして怠惰であるとは欲望に純化するということだ。その境地においては、甘やかな身体のその奥に関係性が潜んでいるなどと警戒することはありえない。触れること、その快楽は、瞬間のうちにあるのだから。

 甘い陶酔に沈むうちに気がつけば関係性に絡めとられる。怠惰な私の眼球の前にただ甘やかなだけの身体があったとすれば、私は悦んでその肌を撫でてしまう、それが怠惰であるということなのだ。この危うさを引き受けずして怠惰であることはできない。

 可能なのは、あらかじめ怠惰であることを奪わぬ身体を、嗅ぎ分けることだけだ。


   


 さて、アイドル――媚態へ純化された偶像――を写真に凍結する際に気を付けねばならぬことがある。それは彼女らの媚態のあまりの強さだ。媚び、誘い、その果てに疑似恋愛へ我々を巻きこんでいくほどの彼女らの媚びの強さは、今さら確認するまでもなく巷間に溢れている。ここで扱っている京佳の身体、媚びながら拒む、そのことによって究極的に媚びる、そういう身体はむしろ稀なのだ。

 彼女の身体性によって私は怠惰であることを赦されている、とはいえ、この写真集には私に関係を――疑似恋愛を錯覚させぬ暗示が入り込んでいる。それはカメラの冷たさである。

 たとえば随所に、彼女の乳房や尻のみをクローズアップする写真が入り込んだりする。しかもそれは場合によって、関係性の温床となりかねぬ写真に併置される。彼女がレンズを見つめたうえ腕を伸ばし、カメラ=視線者を抱擁するように見える写真と、同じページにあらわれもするのだ。彼女から顔が、人格の凝固物が、切除される。私は、それがただ身体であることの悦びを、改めて味わう。

 ここにおいて、カメラもまた彼女の媚態を拒んでいる。さながら、萎びたまま夢精を待っている透明な男性器のように、彼女の身体を怠惰に欲望している。彼女の媚態は、どこへも行き着かずに宙吊りに、ただ媚態のままにあり続ける。拒みながら媚びる身体と、媚びを拒みながらまなざす視線、二重の拒絶があるのだ。層をなす拒絶の底で守られて蹲る享楽……。


   


 写真集は最後へ向かうにつれて、笑みを抑えていく。つまり八重歯が姿を見せなくなる。柔らかさが氾濫する。あたかも眠り入る時の、現の喪失へ流れてゆく甘い静まりのように。あるいは射精の、それも夢に包まれたゆるやかな夢精の寸前の、悦ばしい虚脱。

 しかし、幾度も柔らかさと鋭さを巡った私に、もはや彼女の身体をただ純粋に甘いものとして見ることはできない。極まる甘さに亡霊のように曖昧に溶け込む冷やかさ。私は怯え、安らぎながら、幼児という娼婦の肌を怠惰に撫でる。ただ身体が満ち足りるだけの、虚ろな恍惚が広がる。



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