掌がうすらぐ白昼へ、ゆく。

身体が好きなのですが、生の人間と触れあうのは怖いインポ野郎なので、言葉でもって色んなものを撫でています。

より激しくアイドルを崇めるために――山口真帆事件を発端として

 今回の事件を知った当初、犯人たちを狂的なキモオタであると思い込んでニュース記事を読んでいた私は、まずはじめに彼らを憐れんだのだった。私はドルオタだが、しかし、彼らの犯行について、アイドルへの同情はない。私はアイドルという存在に心を寄せることを常日頃から禁じているからである。そしてまた、同情は、二人の男に私が抱くのと同じ欲望を見たがゆえなのである。
 狂わしいほどにアイドルを愛してしまう者に向けて、私はここに一つの救いの道を示してみたい。それは、私が私自身を救うことでもある。
 山口真帆事件、と言えば全て伝わるだろうから、ここでは事件の詳細の記述は省く。そもそも私はこれを、こう言って伝わらぬようなアイドルに関心のない者に向けて書くのではない。ドルオタにより広く読まれることを願って書いている。
 ドルオタ、と一口に言っても、私が想定している連中は限られている。それは「アイドルを愛するのも趣味の一つだ」と声高に叫ぶことのできるような武井壮的ポジティブオタクでもなければ、アイドルを等身大の人間として扱いあくまで入れ込まず「面白がる」吉田豪サブカル趣味オタクでもない。アイドルへ過剰な信仰心を寄せずにはいられない者――たとえば自らの愛したアイドルを刺し殺し、またたとえば彼女らと特別に深い繋がりを持つことを欲望し、またたとえば、彼女らを強姦してしまう(あるいは今回のケースに即して言うなら、彼女らにそそのかされれば罪を犯してしまう男たち)、そんな、オタクというよりもキモオタと呼ぶに相応しい者らのために私はこの文章を書く。なぜなら、私がその一人だからである。

                  

 私はライブ中にオタクらに視線を送るアイドルというのが、嫌いである。だから現場に足を運ぶといつも、私は彼女らを見つめはするものの、視線が返ってきそうになった途端に俯いてしまう。うかつにも見返されてしまえば、その場から逃げたくなる。私には理想のアイドルライブがある。ステージがマジックミラーに囲まれていて、オタクは彼女らから一切見られず完全に一方的に眼差しを送る存在となる……そんなライブをこそ夢想している。
 私は一方的に見ることを求めるのだ。見られることは恐ろしい。見られる、いやもっと言えば私が見る者に見られる、「互いに見合う」というのはつまり、私と彼女らの間に「人間関係」が生まれてしまうことを意味するから。その関係がひどく薄いものでも、たとえ疑似的でも、人間関係があるというそのこと自体に私は耐えられないのだ。

                  

 人間関係への欲望が誰よりも激しいゆえに、私はそれを欲さない。ここで言う人間関係とは、愛と言っても良い。
 私は愛を欲して、そして同時に愛されぬことに怯えてもいる。
 愛による無限の承認への渇望が強まるほどに、それが不可能であることへの怯えもまた深まる。
 私のようなどうしようもない、それこそアイドルにすがるしかない男が、こんなふうにヤンデレじみた言葉を吐くことを嗤いたければ嗤ってもらって結構だし、マゾヒストとしてそれはそれで嬉しくもあるのだが、話を戻すと、つまるところ愛をもはや欲望してはいないのである。
 そもそも、アイドルにおいて、愛は不可能ではないのか。なぜならまず人間に愛が不可能だからである。愛の無限の承認、くだらない。誰かが、誰かを無限に赦すことなどありえないのは、私が誰かをそのように赦すことができないことからよく知っている。ある人は言うかもしれない。愛の欠如は単にお前の性格であって、どこかに真の愛をもちうる誰かは存在して、私はその相手を探し求めればいい、と。
 そうかもしれない。しかし、愛を与えられぬ者が、果たして愛を与えられるのだろうか。これは、私のようなキモい男は誰にも愛されない、ということではない。愛される、ということすらも上手くできないのではないか、と怯えるのである。そして、他者に問題があるのではなくて、私自身が愛を受け取ることのできない不具者であるのなら、愛は存在しないのと同じである。少なくとも私にとっては。
 たとえば聖母のような誰かに、私は愛されたとする。私は無限の承認を得る。満たされる。幸せだ。これこそ求めていたものだ。
 幸福の膨張とともに、その滅亡への恐怖も加速するだろう。愛されない、のは二度と嫌だ。そのためには? 愛される私でなければならない。
 愛される私、彼女が愛する私……なんだか息苦しい、しかし愛が失われるよりはマシだ、愛されるならすべてよし……。
 果たして、私はいずれ聖母の前から逃亡する。
 なぜならば、いずれ愛されなくなるであろう私の醜さを、他でもない私こそは、知り過ぎているから。冷静になれ、お前がいつまでも愛してもらえるはずがないだろう、と私は自分自身をなじるだろう。するともはや、愛されなくなるのではないか、という怯えは、怯えを超えてやがて来る絶望への確信に変わる。
 だからこそ、去られる前に去る、愛を知らぬエゴイストとして。

                  

 聖母を仮定して愛を否定してはみたが、聖母というのにも無理がある。そんなものの存在を信じてはいない。信じられるはずがない。
 だからほどほどの人間関係で満足しろ、応援し、癒される、それでもう十分ではないかと言う者がいる。そう思える人はそれでいい。しかし私はそう思わないという、ただそれだけのことだ。私は現実の「人間関係」なるものにほとほと嫌気がさして彼女らに救いを求めたのだ。それなのに、ほどほどに、とは……。ここでも、逃げてきた地獄と同じことをしなければならないとは!
「人間関係」を求めるならば、なぜ彼女らを相手に選ぼう。アイドルが、同級生や、同僚や、親兄弟や、友人や、恋人や……それら現実の他者と違う点は「偶像」であることである。こちらの願望を体現してくれる、もっと直接的に言えば、私の欲求を受けいれてくれる存在であることである。
「しかし、その存在も所詮は人間であって、現実の他者と違わない一人の他者であって、何事もほどほどに」
 ……ならば現実社会で健常に日々を営んでいれば良いのだ!

                  

 ゆえに、私は愛を欲さない。私はアイドルとの接触にもほとんど出向かない。たまには金を落とさなければと思うと、グッズを買う。私はグッズには興味がないのだが、大量に、無駄に。それでも彼女らの掌に触れたり、目を見て言葉をかけられるよりは、よほどましである。無駄遣いで失われるのは金だけだが、接触で失われるのは一方的に見つめる特権である。

             

 一方的に見つめる特権が失われて、何が悪いか。
 つまり、言葉をひねれば、その特権は私にいかなる恵みを与えるか。
 さらに言おう。見られないことは、なぜ私にとって快楽なのか。
 答えを先回りして述べれば、私はある信仰を、愛に代わる幻想を、聖母に代わる姿を、彼女らに見ているのである。そしてその信仰は、見られないことによってこそ成立するのだ。詳しくはこれから説明しよう。

   

 神。私のすべてを託せるもの。私のすべてを赦してくれるもの。身を任せられるもの。私を痴呆にしてくれるもの。無限。
 確かに愛とは無限である。しかし愛は決して到達できぬ地点である。
 仮に彼女らを殺しても犯しても、愛は不可能である。そもそもそれらの尊い愚行は、愛の挫折の結果でこそあれ、愛への道ではない。愛の不可能性を前にして、キモオタはそれでも救済を望むのならば、新しい無限を見つけなければいけない。聖母ではないかたちの神を。
 アイドルがそれである。彼女らを、愛とは他のかたちの無限であると信じるのだ。だから私は愛に見捨てられてなお、まだまだ彼女らを崇められる。
 聖母ではないかたちの神とはなにか。
 それは、娼婦である。娼婦は聖母と相対するものであり、私はアイドルを娼婦として見る。なぜなら、そのほうが彼女らを聖母と見るよりも、救済に近いから。
 聖母ではない彼女らは、しかし娼婦ではあるのだ。
 ゆえに神なのである。
 娼婦とは、欲望をすべてその身に引き受ける存在である。私たちはいかなる欲望も、彼女らへ吐き出す。すべてを託す。
 そして娼婦は、聖母が私のすべてを果てしなく抱擁するのとは反対に、果てしなく突き放す。
 聖母が私の欲望に応え続けることで、私の欲望を解放してくれるのだとすれば、娼婦は私の欲望を無視し続けることによって、私の欲望を解放する。
 この「無視」を誤解してはいけない。それは欲望の拒絶ではない。完全なる「無視」は拒みすらしないのだ、私など心底どうでもよいから。娼婦は絶対に私を抱擁しないからこそ娼婦なのである。
 私は娼婦に欲望を吐き出すが、彼女らはその欲望をただ受け入れるだけだ。応えてくれる声はない。抱きとめてくれる胸はない。なんと虚しいことだろう。しかし、その虚しさは、聖母の愛と等しく無限である。だから娼婦は神なのである。私の欲望は、包み込まれるのではなく放り出されることで、完全に赦される。



 アイドルはいまだ神でありうる。ただし、人間関係を徹底的に排除する限りにおいて。
 それは、アイドルを人間的に見ることを放棄して、ただ私の欲望を体現する物として、消費することである。その時、彼女らは娼婦である。私の欲望を引き受けながら、しかし応えはしない。
 もう少し具体的な話をしよう。では、アイドルを娼婦として消費するとは、どのようにすればよいのか。私がさっき書いたマジックミラーステージでのライブというのはその一つだが、それは理想に過ぎぬから、現実に即したことを言おう。
 私が最も愛するアイドルの消費方法は、写真である。写真とは、こちらが一方的に見つめるものである。しかも、目で見て、手で触れることによって、彼女を存分に貪ることができる。欲望が解放されてゆく。私は矯めつ眇めつ彼女らを貪る、見返されることなしに。
 詳しいことはこちらで書いているので読んでほしい。

yumiiri.hatenablog.com

 夢みるアドレセンスの京佳(私の最も崇拝する神の一人)の写真集について書いている。

   

 最後に、繰り返しになるが、言っておこう。
 私は、アイドルに過剰な祈りを捧げる者、すべてを受け入れてくれる神を望む者のためにこの文章を書いた。それは私自身でもある。
 もしもあなたがアイドルを愛することで救われようとするならば、彼女らがあなたを愛してくれないことによって、あるいは仮に愛してくれたとしても愛が我々のようなクソ野郎には不可能であるせいで、どの道ろくな最後は待っていない。
 愛とは別のかたちの救いを、聖母とは別のかたちの神を、私は求め、そしてここに記したつもりである。
 アイドルを狂わしいほどに愛し、そしてゆえに苦しみ続けている者に、私の言葉が少しでも処方箋として機能すればこれ以上の幸せはない。
 どうか、彼女らは聖母ではなく娼婦なのだと、信じて欲しい。