水子とマジックミラー
売春という肉体関係の一つのあり方に、私は強く魅惑されてきた。折に触れて、川端康成の文学と、写真芸術とを享楽の対象にしてきたのも、この嗜好と深く結びついている。不能であること、そうありながら他者に触れること。
澁澤龍彦が、娼婦について興味深いことを書いている。
……この愛の女神たるウェヌスは、古代地中海世界ではイシュタールの異名をもって呼ばれていたが、おもしろいことにイシュタールという言葉には、「処女」という意味と「神聖な娼婦」という意味があったのだ。
処女と娼婦、――一見したところ、この二つの概念は、まったく相矛盾し対立するかのごとくに見える。しかし古代においては、処女という言葉は、単に性的経験をもたぬ純潔な女性をさすばかりでなく、また男と交渉をもつこともできるけれども、とくに婚姻を忌避して、特定の男の従属物になることを拒否する女をさしていた、ということを知っておく必要があろう。そういうニュアンスのもとに眺めるとき、一見相矛盾するかのごとき「処女」と「娼婦」という二つの概念のあいだに、ある共通した要素のあることが見てとれる。つまり、いずれも妻たる自分に安住することを拒否し、子供を産むことを拒否するという点において、「処女」と「娼婦」はデメタール原型、「母」たる女と明確に対立しているのだ。特定の男に従属した女は、すでにエロス的原理を放棄した者である。
無限の赦し、それこそが娼婦の存在論的な美である。
ところで、川端康成の作品群には、娼婦的なヒロインを描いたものが数多く存在する。広く知られたものでは『雪国』や『伊豆の踊子』、『眠れる美女』などであろうか。それらはもとより、「住吉連作」と呼ばれる一連の短編作品のうちでも『しぐれ』、『掌の小説』収録作『指輪』に、私は最も崇高な娼婦のすがたを見出す。前者では、双子でまるでどちらがどちらと見分けのつかぬ芸者が、後者では遊女の娘と一目でわかるような妖しさを纏った少女が描かれているのであるが、私が惹かれるのは、彼女らが全く精神性を欠落して描かれている点である。
双子の娼婦は、主人公の男の眼にはまるで見分けがつかず、それがゆえに男は親友と四人で淫蕩に耽り、「官能の刺激ばかりでなしに精神の麻痺」を味わう。「精神の麻痺」は、彼女らが他でもなく〈双子の娼婦〉という独特の存在であることによって生まれている。双子とは、肉体の相似である。そして娼婦とは、精神よりもまず肉体を存在の根拠としている、なぜなら普通に考えれば、彼女は肉体を欲求されることで存在しているからだ。肉体なしで存在しないもの、それが娼婦だ。
肉体として存在している二人が、全く同じ姿形をしている……ここには二重の人間否定がありはしないか。娼婦という肉体へ還元された者として全く同じ形態の肉体を二つ並べるなら、どういう事態が起こるか。主体の完全なる消滅である。他の誰でもない〈私〉が溶け去り、肉のみが残る。
本作の終結部には、親友の男が死んだことを主人公が二人に告げる場面がある。片方の女が涙を残すのを見て主人公は、親友が余計に遊んだほうの女だったのか、と考えるが、二人の見分けがつかないので分からない。涙さえ人格を離れ、ただきらめきばかりを放って虚空へ落ちる。この「精神の麻痺」こそが、娼婦の与える愉悦であろう。
川端とは斯様な戦慄を描いた小説家であった。とはいえ、やはり彼が処女に対して深く傾倒していたことを見落とすわけにはいかない。三島由紀夫が『永遠の旅人―川端康成の人と作品』において「処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味」と的確に指摘したように、川端の美意識はしばしば処女を崇める性質をもつ。だが、このことと、彼が処女のみならず娼婦もまた不気味なまでの類まれなる輝きをもって描いたこととは、澁澤の言葉を思い出してみれば、二つで一つのことである。
『指輪』ではまさしく、川端の処女と娼婦への崇拝が重なる。とある温泉宿に宿泊して翻訳仕事に精を出していた学生の男が、気晴らしに混浴の宿に入る。ひとり、湯に浸かっていると、後から訪れる少女。男はその姿を一瞥して、近くにある遊里の女の娘だろうということを、幾代に渡って男を惑わしてきた美しい血の早い開花のように彼女のまだ幼い裸体を眺めて察する。指輪を濡らしてしまったと叫ぶ彼女の声に惹かれ、男はその小さな指に目をやりながら、子どもの自慢したさの演技にまんまと乗せられたことにいら立ちを覚えるも、それもまた大人気のないことだと自嘲して、指輪を見せてくれと声をかける。いよいよ自慢げに少女は指輪を見せつけるのだが、もっと見てほしいのか肌の触れそうなほど身体を寄せてくる。その純真さに男は、このまま抱き寄せても何の疑いもなく指輪を見せつけて喜んでいそうだと思い巡る。
この一篇から、私は三島による川端のエロティシズムへの分析が、処女のみならず娼婦にも敷衍可能ではないかと思う。処女の純潔は、娼婦の汚濁である。誰にも触れられないことと、誰にも触れられることは、おなじ永遠である。誰にも触れられないということは、誰にも触れられるということであり、その逆もまた然りだ。この作品において川端は処女に、「血脈」というかたちで娼婦性を匂わせている。これまでとこれからの、無数の男の手を想わせる。
娼婦の肌を撫でながら、今夜何人の音尾に抱かれたか、と思いを馳せる悦びというのが存在する。私は、私から解放される。彼女の前でだらしなく項垂れる男の群れに溶け消えてゆく。
さて、その撫でられる肌とは、赤く沈むように腫れた肌だった。私の持病(というほど大したものではないが)は、大きく言うと、喘息とアトピー性皮膚炎である。呼吸すらままならなくなる時、まるで自分の身体が自分のものでなくなったように肌が疼く時、私は「この身体を強いられている」という感覚を享受せずにはいられなかった。私のこの身体は、まずそれ自体がそもそも、不能なのだと。
柄谷行人は、『雪国』をこのように見切った。
主人公にとって、トンネルの向こうは別世界である。……彼が温泉の芸者たちとの愛の関係に苦悩したとしても、彼はそこで傷つくことはない。傷ついた女たちを冷徹にながめる主人公の自意識は揺るぎもしない。なぜなら、別の(他の)世界であるにもかかわらず、彼はなんら「他者」に出会っていないからである。しかも川端がそのことをはっきりと自覚していることは、頻繁に用いられる「鏡」のイメージからも明らかである。つまり、主人公にとって、女たちは鏡に映った像においてあるだけなのだ。女たちが現実にどうであろうと、彼は鏡に、いいかえれば自己意識に映った像以外になんらの関心ももたない。
私はこの川端理解に完全に肯く。これと全く等しいかたちで川端を捉え、そしてその文学を柄谷が厳しく批判するのとは異なって私は深く愛さざるをえない。
川端は他者と出会わなかった、なぜなら娼婦とは他者ではないから。さらに注意すべきは、この「鏡」に映るのは川端自身ではない。彼はそこに自分を映す欲望は抱かなかった。そもそも、他者のないところに自己が存在しうるはずがなかった。その意味で、自我意識の病からこれほど無縁でいられた小説家は稀であるほどだ。
果たして川端は、世界をこそ「鏡」へ映し続けたのだった。自己から逃れるように他者へ溺れ、他者のうちに自己を見出さぬために、「鏡」を手にしたのだ。
鏡に映る娼婦――不能者にも崇めることの赦された美神。
万人は、いかなる神の前にも、跪けるわけではない。信じられる神、信じられない神は、各人の身体に規定されている。不老不死のロボットに釈迦の説法は救済か? 我々は我々の身体を超越した存在に神を見るのであって、そもそも身体を共有していない神になぞ救われようがないのである。
……鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頬が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。
もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。(川端康成『雪国』)
〇
はじめて交わりをもった女性と、終わりまで曖昧なままだった関係が曖昧に始まった頃のある日、花屋に付いてきてほしいと頼まれた。夜遅くまで開いている店があるが家から遠く、雨も降っているから、と彼女は言うが、当時の幼い私には車も何もない。それでも付いて来てほしいと理由もはっきり明かさずに強いる不思議な態度に流され、また女が花を買う姿への妙な興味も手伝って、私は電話越しに肯いた。
深夜近く、花屋は閉店前でほとんど明かりを落としていた。橙色のライトはうすく、ガラス壁のむこうに狭々しく並ぶ花の折り重なる花弁が、やわらかく陰る。静かな雨が音もなくガラスを流れてゆく。レジ台で器に花を盛る女と、その傍らで俯いている彼女の、白い顔。剪定され、縛られ、いよいよ生命を澄ませている花を、見ているようでも、見ていないようでもある。俯く、その細い首の傾きに、頭のぽとりと降り落ちそうな危うさがある。黒髪が、やや青かった。
やがて透明の袋に包んでもらった花を胸に抱いて、彼女はでてきた。店の女が、中からその背中をちらと視て、視線を据えかけてから、ふっと虚空へ抛った。
――大きすぎたみたいやわ。
――作ってもらいながら、気づいてたけど、途中でやめてって言い出すんも悪いから。
どこか騒いだ軽やかな声で、彼女は言った。花を見ないようにしているのか、表情の欠け落ちた顔がどこか傷ましい鋭さをもって真っ直ぐこちらを向いている。色とりどりの花弁が、白い腕の中で、明るんだまま凍りついたように、押し黙っている。
明日でちょうど一年前になる日に堕胎した水子へ、供える花だと言った。当時の恋人と、子を産まないと話し合って決めたショッピングモールの駐車場で、二人で線香をあげるらしい。「二人で会うけど、別になんもないから、妬かんといてや」と彼女が笑った時、私もひどく笑った。自分の笑い声が、鋭いほど高く聞こえた、そんな覚えがある。
明日、なにを話すのだろう、と思った。子を作ったこともない私には、想像のつかないことだった。
花のラッピング紙に散る雨滴を、小さな白い手がそっと払った。
〇
忘れがたい光景がある。幾年か前、青春十八切符を利用して、学校の新年度の始業前日に普通列車に乗り込んだ。車窓に面したボックス席に座り、缶ビールを飲む。しだいに酔いがまわり、車体の揺れと春の陽が心地よく、私はいつのまにか寝入っていた。
ふと目を覚ますと、いつのまにか景色は変貌していて、電車は桜の花の群れにトンネルのように包まれて走っているのだった。線路の両側に桜花は狂い咲いて、その鮮やかな色彩のなかを高速に通過していく。夢とも現ともつかぬような、正体のないからだを座席に沈めるようにして、流れてゆく花々を眺めやった。
すぐの駅で降りてみると、無人駅舎を出てすぐ村内観光図と記された小さな看板があった。指で埃や錆を払って調べる。駅の傍らには小川が流れ、急こう配の土手があり、それを挟んで向かい側にはゆるやかな丘が小高く盛り上がっている。その青々しい丘を包むように頂からも桜が咲き並んでいるのが、看板のイラストでも目視でも確認できる。川に沿って北へ進むと寺院がある。水子供養と子宝祈祷の霊験があるとされているようだ。
かつてあった、あるいはあったはずの生命を供養することと、いまだ見ぬ生命の来訪を祈ることとが、一つの寺院において営まれるなど可能なのだろうか、と私は疑った。仏教はおろか宗教全般にも加持祈祷にもなんら知識をもたない私には、その二つの想いは相反するものと、単純には見えた。相反する、ということはどこかで繋がっているともいえるのだろうか、などと眠気と酩酊の残る頭でぼんやり考えながら、とにかく辺りを散策して、体力次第ではその寺院にも行ってみようと歩き出した。
線路下を横断する背丈よりも低いトンネルをくぐって、駅の向かい側の桜並木に沿って北へ進んだ。というのも、こちら側の丘では花見客がぽつぽつと、それぞれ敷物の上に腰をおろして寛いでいた。多すぎず少なすぎずの人たちの和やかな姿が、やわらかい光と桜の花の色めきのうららかな風景に溶け込んでなんとも好ましく、私は彼らをも自然のように感じて魅入られながら歩くのだった。ぼうっとした意識をいいことに、こちらから一方的に彼らを見て、彼らから見返すことを忘れられていた。また、かように美しい陽だまりのなかに居て誰がわざわざ私を見るのか、といささか虚しいような自由を愉しんでもいた。
一組の男女が目についた。レジャーシートを敷かず、そのまま地面に腰をおろし、男が、女へ向けて、小さなカメラを構えていた。女は長い髪を振り乱し、一見激しく笑っているかに見えたが、顔貌に、涙ぐましい歪みが浮かんでいた。涙を拭う仕草もした。細い手を目元にやり、恥じらうように、レンズの前へ手をやる。しかし、唇は笑みに裂けているのだった。笑い泣きには見えなかった。男のほうにも、同じ面付きがあった。なにとは分からない、動きばかりが騒いで、心がない。感情を押し殺しているというよりも、切れ切れになった笑みや涙やがそのまま弾けているようにも見え、おそろしい。
凄絶な印象を受けながら、それでも私は足をとめず、淡々と歩き続けたのだった。頭にふと水子供養と子宝祈祷という二つの言葉が浮かんだからだ。いや、水子という言葉だけが、さきに浮かんだ。子宝祈祷については、その連想に過ぎなかったのではないか。見てはいけない、と戒めが胸の内に強く起こった。足をはやめてもいけない、その足取りに、彼らに向ける背に、あわれみが滲む。自らはあわれみを受ける存在だと、彼らに突き付ける。
視界から二人が完全に消えてから、無音だった、と気が付いた。笑い声も泣き声も聞いていない。そう思ってはじめて、小さく泣き声が耳に届いた。私の作り出した幻聴だったかもしれない。振り返って確かめるわけにもいかない。その声は、辺りの和やかな声のまとまりを破らない、清潔に静かな、しかしどこまでも細く張っていくような、かなしい粘りのある声だった。
私は、散策をやめて、電車に乗った。歩みを止めたかったのだ。そして、できるだけゆっくり、二人について考えたかった。
なぜ彼らは泣いていたのか? そもそも二人は泣いていたのか?
〇
写真という物への執着が、私にはある。表面に再現された現実。その前で私は、佇むことしか許されない。写されているのはなにものか、という想像力は常に脱臼する。なぜなら、写真には実際に存在した事物だけが、光と影だけが、横たわっているに過ぎないから(いくらテクノロジー環境の変化によって写真に加工性が付与されても、加工される素材であるところの現実が、写真にとって逃れがたい呪縛であり続ける)。
素っ気なさ。この写真の生理にこそ、私は惹かれるのだと思う。まるで、あの泣き笑っていた二人のことを思い出すように、写真を見るのだ。二人について想像することは不可能だ。しかし二人の存在は頑なに揺るがしがたく突き付けられる。……真摯な想像が挫けた地点から、彼らがなぜ涙を流さなければならなかったか、ということを離れて、彼らの涙はどのような色をしていたか、ということを味わう。想像の限界点において、だらしなく、しょうがなく、味わうことを始めようと思う。おもいやることから味わうことへ。虚しい、それゆえに自由な、味わい。
このような、やや大袈裟に言えば「世界への対峙の仕方」を、不誠実だと罵られるなら私はそれを甘んじて受け入れねばならない。写真――想像を撥ねつける事物を冷たく享楽すること――不能者の快楽主義――それはそのまま、私の実存の形態でもあった。
e.j.belloqによって撮影された売春婦たちの写真。疲れたような面差しがほのぼのと明るい彼女たち。まったく気が抜けてしまった光と影、飾り気の皆無、あるいは過度な飾り気のふざけた嘘っぽさ、それらの要素に匂う官能性。捨てた身のやさしさ。白い頽廃。
ベロックは、彼女らを買ったことがあったか。彼の写真の不可解な妖しさは、女体を全く知らないとも、あるいは知り尽くしてはいたが娼婦しか知らないとも、感じられる。なんとも知れぬおそれが漲っているのだ。そのおそれが、写真を静かにしている。彼女らと一定の距離を保っている。レンズの前に立つ彼女らの眼差しも、シャッターを押す者を、慕いながら軽んじている。
彼女らに憧れて、それゆえに怯えて、シャッターを押す指が慄いてはいなかったか。ベロックとはレンズを挟まないでは彼女らを見つめられぬ男ではなかったか。そして、写真家とはそのようにしか世界へ対峙できぬ者ではないだろうか。そうでなければ、なぜわざわざ世界を写し取り、額に嵌め、眺めたりしなければならないのだろう。写真の奥底には、世界を一方的に見つめたい、でなければ見つめられない、という欲望が横たわっている。
そして、過剰に見るということは、触れられないということでもある。写真の上の肌を撫でても、温もりが滲まぬように。この、触れられなさをこそ、私は「不能性」と名指した。そしてそのような身体にとっての神について、考えてきたのだった。すなわち「娼婦」を。たった、それだけを。
〇
見学店へ初めて訪れた時に、私は酔った眼を必死に凝らしながら、ベロックの写真だ、と胸の内で叫んだ。
見学店、狭い個室に客が入り、マジックミラーの向こうで様々な姿態を展開する女を眺めるという、奇妙な売春形態。もちろん、マジックミラーだから、こちらから相手を見ることはできるが相手からこちらは見えない。私は見返されることのない寂しい安堵のうちで、一方的に見ている。
二人の自慰者とは、売春という営みの、一つの極点ではないか? 売春者はその身体の姿形を貸し与え、無限に視線を受け止め、買春者は全くもって見返されないで、売春者への陶酔のうちに一身を沈める。ここには売春の悦びの全てが結晶している。
ストーリーヴィルに見学店があれば、ベロックが写真機を持つことはなかっただろう。なぜなら端的にその理由がなかったからだ。もちろん、その作品が我々により高く深い美をもって迫ってくることは確かだが、とはいえそれはベロック自身には関係のないことだ。彼の切望はそのような美の成就ではなく、マジックミラーを挟んだ一方的な眼差しだったのだから、それが叶うなら写真機なぞは無用の長物だ。
美が、自分の身体の先に広がる崇高であるのなら、私にしてみれば無限的に不能であることこそが美神の宿命でなければならない。娼婦がこれに合致する。そしてその美により深く酔おうとしても、決して近寄ってはいけない。ましてや触れるなど最大の禁忌である。一方的に眺めなければならぬ。この難問への解として、マジックミラーが、ベロックの写真が、川端の言葉が、存在している。
川端の美学が、彼の境涯と無縁であったか否か、私は知らない。しかし、孤児であることの寂寞が、誰の肌にも馴染めぬ運命が、触れることへの絶望として視覚の過剰に至ったとてなんの不思議があろうか。
私の身体を川端の美学が一筋の青光のように貫いたのは、はじめの女性に水子があると知ってから少しした時のことである。私は彼女と真昼の海にいた。へとへとに泳ぎ疲れ、ひとり先に海を出て売店の陰に休みながら、川端の雪国抄を読んでいた。それからふと海のほうへ目をやると、彼女もいくらか疲れた足取りで砂浜にあがり、こちらへ歩いてきていた。
はじめての女性のはじめての子を私は知らない、という言葉が、浮かんだ。水子の存在が、なにか俄かに、はっきりしてくるのだった。お盆の海という、無数の死に浸された状況も手伝ったのかもしれない。しかし川端の言葉に触れていたのが大切な契機になっただろうと思う。彼女には水子がいる。私はそのようにして、川端の美学に心を通わせたのだった。水子とは、少なくとも私にとって、遂に決して触れ得ぬ彼女であった。そして、それこそ亡霊として纏わりついてくる、逃れがたい一個の、不能の痕跡であった。生れ出た子ならば、成長するうち私の子と思えたかもしれないし、殺しさえすれば他ならぬ私の手によってこの世から消失させることにもなる。
しかし名もなき水子は、既に亡く、しかし漂い、そして私には触れ得ない。
呪うようでいながら、それでいて私は、痴呆じみた愉悦のなかにある。
水子の存在を享楽するように、私は川端を読み、写真を眺めている。
娼婦の肌は冷たく 中編
白昼の靄
4
表現するとは、とりわけ写真という方法を用いて表現するとは結局いかなることなのだろうか。それはむろんのこと私の像(イメージ)の表出や、外化ではない。それこそ写真の最も不得手とするところのものだ。(…)写真を撮るということ、それは事物(もの)の思考、事物(もの)の視線を組織化することである。
(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』)
写真は、散文的かつ豊かな描写力を持つというその性格によって、イメージを表現するには不自由であり、そしてかわりにカメラの前で実在した事物を生々しいリアリティでもって保存する。世界が、なんらかの象徴へと換言されることなく、そのもの自体として冷凍される、写真という営為。もちろん、写真に創作性が忍び込まないとは言わない。それが虚構を演じることは、例えばイデオロギーの道具としても機能しうることは、ありえる。
中平もその点を見落としてはいない。
カメラとは何か? カメラの依って立つロジックとは何か? カメラはわれわれの見るという欲望の具現であり、その歴史的累積が生んだひとつの技術であり、それ自体ひとつの制度であると言えるだろう。(…)
(…)カメラというすぐれて近代の所産は、一点透視法にもとづいて世界を統御しようとする。カメラは見ることを一方的に私の眼に限局する。
ここでの「見る」というのは、いわば近代的世界認識の様式のことを指している。つまるところカメラは、世界を縮小化して、私の所有物とする。イメージを投影する器として、写真は消費される。世界と私のイメージとが全く重なる。
このことは、冒頭に引用した部分と矛盾しているように聞こえるだろうか。しかし、そうではないのだ。なぜなら、写真が、事物であることと、イメージの器であることは、併存しうるからだ。
あるがままの事物、人間の眼差しを撥ね返すモノ……それは当然、人間の抱くイメージではない。しかし、事物は、完全にイメージから逃れることも、またできない。事物は、イメージを完全に受け容れるのではなく、染まるのだ。そこでは、世界は人間の思うように在るのではない、しかし人間がいかようにも想うことを赦されている。
事物としての輪郭をそのままに「イメージを帯びる」のである。娼婦は、客からの愛に応えない、しかし拒みもしない。虚空へ響くのみの、客の愛。そして彼がなにを味わうかといえば、その愛だけを、弄ぶのである。応えられることによる幸福なしに、愛の陶酔のみが永続する。客は安らいで、愛したいように愛するであろう。事物は、イメージの前で沈黙することによって、イメージを赦すのである。イメージに、あるがままのかたちを。
このように言えないか……私は写真を目の前にして、それを好きなように見る、そこに思うがままのイメージを託す、それ自体の描写力を免罪符にして。あるがままの事物を、思うがままに見る。事物とイメージの密約。
事物は沈黙する。ゆえに、どのようにも見ることが可能である、そして同時に、このようにしか存在していない、という性格を有している。沈黙は、その姿形を冷たく留まらせて、なおかつどのようなイメージにも染まるのである。恋人が、私の彼女への見方(愛のかたち)を時に拒むのに対して、娼婦は肉体しか与えないからどのような見方も赦すのである。だからこそ、応えられないことによってこそ、私は安らぐであろう。虚しさに悦びを見出すであろう。
事物のごとき「このように在るモノ」は、どのようにも見ることができるのだ。例えば絵画のような、非実在という「そのように在らしめたもの」であれば、「そのように在らしめた」ところの意志なり理念が、私のイメージを束縛する。ところが写真は、その創作性によって私へイメージを誘惑しながら、事物として沈黙することによって私が投影するイメージを無限に赦す。写真は、イメージを促し、そして誘い出されたそのイメージを、無限に抱きとめるのである。写真は「見ること」を正当化する。
たとえば、風景写真は肖像写真や報道写真などに区別されているが、私の考えでは、すべての写真は風景写真である。被写体がむごたらしい屍体であろうと、飢えた子供であろうと、それは風景である。
(柄谷行人『鏡と写真装置』)
柄谷が指摘するように、戦争さえ写真の手にかかれば風景になる。そして、付け加えておけば、例えば我が子の産まれたての無垢なすがたもまた、写真は風景にするのだ。写真とは世界を包む凝固剤である。私の掌は直の世界との接触から隔絶される。「見ること」は触れることが不可能なままに、モノに迫る営みではないか。
5
さて、私の手元にいま、一冊の写真集がある。熊谷聖司『BRIGHT MOMENTS』。表紙は、横たわる一つの女体である。日の明けかかる、あるいは暮れ終える、そんな瞬間のような蒼暗さを湛えた浅水に、ほっそりとしたほの白い女体が眠っている。ぼんやり白い肌と暗い水とはふっと溶け合うかのように曖昧である。
曖昧さ――この写真集においてそれは、独特なかたちで存在している。そこでは、テーマなどといった、作品の深層部が曖昧なのではない。どういうことか。ほとんどの収録作品が、画面全体の印象として柔らかい。ほんの微かにピントが外されている。不鮮明さの程度には作品によって差があれど、対象や波などであることも認識はできるとはいえどれもぼんやりとしている。しかし、繰り返しになるがそれは一口に不鮮明と言うには、少し奇妙でもある。視覚的に、なにかがおかしい。ただ不鮮明なのではない。それだけではない。どこか、目に纏わりついてくるような印象なのである。
柔らかい、と私はさきに形容した。この形容詞に、熊谷の写真が纏う曖昧さの特殊性がある。そもそも、不鮮明であることは、必ずしも柔らかいということを意味しない。その証拠の一例として、中平卓馬のある時期までの作品群を見てみれば良い。「アレ・ブレ・ボケ」と称されたそれらの写真は、「ボケ」という意味で熊谷の写真に重なる。そこではピントが外れ、画面に写る対象が判然としないこともしばしばだ。「ブレ」を含んでいる点においても、熊谷と共通している。この写真集にも、ブレを用いた作品かいくつかある。
しかし、「アレ」という特徴が、熊谷のほうには皆無なのである。荒々しさはなく、柔らかいのだ。「ブレ・ボケ」という、不鮮明さを招く要素を含みながら、その一点においては二人の写真は正反対とすら言える。
この柔らかさがどこから来るのか、とつくづく首を傾げて熊谷の写真に見入る。ぼんやりと、写真が眼に纏わりついてくる。この眼に纏わりついてくるものはなにか。色彩ではないか。この写真群は、沈んだ色彩を基調としている。この色調と「ブレ・ボケ」が溶け合う時、「アレ」の反対方向の柔らかさを画面が纏う。〈色の弱さ〉と、〈画面の揺らぎ〉が、まるで色の弱さゆえに画面が揺らいでいるようにも、画面の揺らぎゆえに色が弱まるようにも、この目に映る、それほどまでに二つの要素が同程度で溶け合う、いわば色と画面の〈浅さ〉が完全に一致するその瞬間、写真は目に纏わりつく。靄に包まれるような、柔らかな不鮮明が広がる。
曖昧さが極まる。中平卓馬は、前章に引用した文章のなかで、「アレ・ブレ・ボケ」写真を、その特徴にそれらの多くが夜や薄暮・薄明に撮られていること、カラーではなくモノクロであることを挙げつつ、このように評価した。
(…)それは対象と私との間をあいまいにし、私のイメージに従って世界を型どろうとする、私による世界の所有を強引に敢行しようとしていた(…)
不鮮明こそが、写真にイメージを呼び込む。しかし、私はここで問いたい。中平が有した「アレ」や、その作品がモノクロであったことは、果たして本当に不鮮明な画面を構成しただろうか。
したかもしれない、しかし、細かい粒子とカラーによってこそ可能になる、〈浅い色と画面〉の溶け合いよりは、それは鮮明であった。モノクロと粗い粒子の結合による画面は、むしろその衝迫的印象によって、たとえ不鮮明ではあってもその画面をまざまざと突き付けてくる。「これを見ろ」と。では、柔らかな写真はどうか。それは、曖昧な画面を、ただ曖昧なままに広げている。漂いながら、目に纏わりつく、消え入りそうな薄明を湛えて。中平が、薄明をしかし鋭く切り取るのに対して、熊谷は薄明を薄明のまま捉える。中平において陰陽のコントラストは過度なまでに激しいのに対し、熊谷は陰陽を境目なく溶解する。
すなわち、このように言うことができるだろう。熊谷の写真は、「アレ・ブレ・ボケ」の徹底としてあるのだ、と。
6
薄明のなかで、女体が稀有な容貌を示してくる。
〈弱い色と画面〉に写る、白い肌。靄に溶けゆく痩せた身体。つまり、そこでは身体の輪郭が揺らぐ。水と光と肌とが曖昧になる……。
曖昧さ――ところで私は、この写真集について、『匂う娘』からの連想において語り始めたのだった。もっと正確に言えば、人間が肉体的でしかあれぬような事態の一つとして、熊谷の写真集へと眼を向けた。中平卓馬の言説や写真を手掛かりとして。
しかし実のところ中平は、熊谷的な写真をこそ攻撃したのだった。私が数度にわたってここまで引用してきた『なぜ、植物図鑑か?』は、私の引き方に反して、「アレ・ブレ・ボケ」を自己批判し、その先の写真を志向するものである。彼は「事物」としての写真を望み、「あいまいさ」を一切許さない「図鑑」こそが写真の最良の形式であるとした。そうだ、「あいまいさ」をこそ彼は否定したのである
(…)われわれはそれに名辞を与え、そのことによってそれを私有しようと願う。だが事物はそれを斥け、斥けることによって事物である(…)形容詞(それは要するに意味だ)のない事物の存在を、ただ未来永劫、事物は事物のロジックによってのみ在ることを認めること。事物はあのようにではなく、このようにして在ること。
彼の思い描く写真は、ただ在るモノ=肉体である『匂う娘』に、とても近いように見える。しかし私は、「図鑑」ではなく「アレ・ブレ・ボケ」が、またその徹底である熊谷の写真が、『匂う娘』に重なってみえるのである。靄のかかったような画面、仄めく肌。
輪郭の溶解が、事物を打ち立てるとすれば、なぜか。
私は熊谷の写真を前にすると、その眩いばかりの表層性に、まず呑まれる。そこには、写っているモノ以上のなにかが存在しない。私の視線はその奥へ進むことができない。象徴や寓意(意味や世界認識と言っても良い)はない。深層を孕まないのだ、娼婦が子を孕まぬように。ただ皮膚が広がっている。私はそれを撫でる。手触りだけが感受される。
中平が言ったように、画面の不鮮明が写る世界と私との間の壁をぼかし、私が見るように世界がある、という認識を可能にするのだとすれば、熊谷の写真(あるいは「アレ・ブレ・ボケ」)には、むしろ深層しかないはずではないか。
しかし、中平のこの前提に、誤謬がありはしないだろうか。画面の不鮮明は、本当に壁をぼかし、私に世界を所有させてくれるだろうか。私はこの辺りに、なにか、中平の写真論に肯いてしまいながら熊谷の写真にこそ事物を見る矛盾の原因を、感知するのである。
写真はその描写力によって、世界そのものを写すかのように信じ込ませる。とすれば、画面を不鮮明にしたとしても、ぼかされるのは世界でしかないのではなかったか。眼にとっては、写真においていかように対象がぼやかされても、それが事物であることに変わりはないのではなかったか。確かにそれは「あいまいさ」を誘発する、しかしそれは世界と私との間の壁ではなくて、世界そのものの姿形を「あいまい」にするのではなかったか。そして、カメラによって私は依然として世界から隔てられたまま、世界を「あいまい」な事物として見るのではなかったか。世界と私との間の壁なるものは、画面の不鮮明なぞで崩れはしない。なぜなら、それは眼に拠っているのではなく、レンズで構築されているからだ。
中平は、それはイメージであって事物ではない、と言うだろうか。しかし、これこそが事物なのだ。「このようにしかない」と、イメージ=「あのようにある」を拒みながら、しかしその沈黙(事物は「このようにしかない」としか言わないのであって「こうである」とは主張しない)によって、イメージに無尽蔵に染まる、事物とはそのようなものなのだ。
そしてまた、イメージに染まりえないものは、事物ではない。例えば「図鑑」は、確かに中平の言うようにイメージ的ではないが、純粋に「事物」でもない。それは「情報」であり、「観念」である。イメージへ歪められはしないかわりに、抽象へ歪められている(そして、一応言っておけば写真がイメージによって歪むことはないのである)。無論、写真であるからして、それは事物として存在してはいる。とはいえ不純であることには違いない。写真でありながら、写真ではない方向へ無惨にもがいている。
写真は、写真であることによって既に、事物である。この生理を、中平は信じず、熊谷は信じた。そして熊谷の信仰は正しい。中平の向かおうとした事物は、彼が背を向けた方角の、その果てにあったのである、彼の許容できないかたちで。熊谷の作品は、イメージに塗りたくられている。しかしそれでいて、そこに写る対象は私から隔てられて事物として在る、と感じさせる。
『BRIGHT MOMENTS』における女体。それは肌である、というよりも、肌でしかない。静けさの深まる海に弛緩した痩身が浮かび、沈み、揺らぐ。暗い岩々と混じりあうその海は、果てしないというよりも底しれない。女体は膨らんでは崩れる波のように朧げに、仄かな白に肉体らしい物質の強張りがなく気体と液体のあわいの手触りだ、細かな雪のようである、風に漂い天へ昇りかかるところで消える雪のようである。その白は空の色にやわらかく染まる。時に明るみつつ、時に静まる。衰微の色を常に帯びながら、それなのにと言うべきかそれゆえにと言うべきか危ういけがれも香らないではない。あやしさも底しれず柔らかい、これも母の腕の柔らかさではない、身を投げる虚しい穴の柔らかさというものかもしれない。これこそが、娼婦の肌というものか。
7
白昼、事物(もの)はあるがままの事物として存在する。赤裸々に、その線、形、質量、だがわれわれの視線はその外辺をなぞることしかできはしない。
(…)
けんらんたる白日の下の事物の存在。事物からあらゆる陰影を拭い去ること。光あれ! この陰影こそ〈人間〉の逃れ去る最後の堡塁である。
(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か?』)
中平が求めた「光」、熊谷が捉えた「BRIGHT(=明るい)」。それは中平の言う通り、事物の氾濫の場である。しかし同時に、イメージの氾濫をも誘惑する。事物としての沈黙において、イメージは氾濫するのである、幸福な受肉へ至らぬ不能のまま、しかし果てしなく。
「白昼」こそが曖昧なのだ。そこには闇のかわりに蜃気楼がのぼっている。白々と明るい靄が。
8
川端康成の『匂う娘』における連想の生理にも、「明るい靄」が宿っている。
それは深層を孕まない。曖昧さによって、その小説は「ただ在るモノ」として存在する。事物であるだけの言葉から、私は肌の手触りを、イメージばかりを味わう。熊谷聖司において、モノがモノでなくなるのに等しく、川端において言葉は言葉でしかない。何も孕みえない。
中平卓馬が夢見ながら逃し、熊谷が捉えた、事物。川端の紡いだ、言葉。表層だけのモノ、娼婦。
私が『匂う娘』に感じた「冷たいやさしさ」とは、作品においてこのような事態が起こっているゆえであった。すべてがモノとなる、人間さえ。
しかしこれではまだ、すべてを掴んだとは言えないのではないか。
「娼婦」についての探究は、「冷たさ」の原理の一端を把持するに過ぎない。私は「冷たさ」についてばかり語ってきた。では「やさしさ」については? つまり、私はなぜ娼婦を「やさしい」と感じなければいけないか。何に慰められ、何に赦されているか、それはひとまずわかったとしよう。そして更に問おう。私はなぜ慰められ、赦されるのか。
この問いの果ては、斯様にも言い換えることができるだろう。
私のうちの何が赦しを乞うているのか?
もはや「冷たいやさしさ」と素直には書けない。「冷たさ」の「やさしさ」、それが私の問題なのである。
「冷たさ」の「やさしさ」。娼婦によって私が赦される理由。
このことを考えようとするにあたって、私はまた、一冊の書物を俎上にあげてみようと思う。他でもなく娼婦じみた「やさしさ」によって、私を惹きつけて止まぬ言葉を。
娼婦の肌は冷たく 前編
祈りにとどまる
0
何を書くべきか、どのように書きたいか、という恣意を諦めて、書かざるをえないように書く。そのような態度をもって私はこれから、いくつかの対象について言葉を尽くしてみようと思う。そのための準備として、私は何に魅せられているのか、つまり、何を書こうとしているのかについて、曖昧ながら考えを巡らせたい。
物心つく前から、中学生になる辺りまで、私は頻繁に喘息の発作で苦しめられた。今ではほとんど味わうことのなくなったそれは、ただ苦痛であるというよりも、いくらか恐怖に近いものを与える身体体験だった、と記憶している。意識は明らかなままに、呼吸がままならなくなる。息を吸って、吐く、普段はあまりに当然で不可視のその営みが、突如として鮮やかに感じられてくる。
息を吸って、吐く、必死に。わずかの空気を取り込んでは、安堵する暇もなく吐き出し、吸う。意思はもはやない、苦しみの感覚と、呼吸の運動だけが、ある。
なぜか、覚えている光景は、夜ばかりである。自室か、母のベッドか、病室か。いずれにしても静謐な空間にざらついた呼吸の音だけが這っている。その夜、私はきまって、自分の身体というものを感じた。身体を感じる、とは不思議な言い方になるが、しかしそのようにしか言い表しようがない。日常生活においては、ほとんど意思のままに動くこの身体が、意思の言うことをまるで聞かない、それどころか私から意思を蒸発させていく。身体とは、不能の状態において、ようやく浮かび上がるものなのだった。さきに、それこそ意識せず書いたように、私は、「発作で苦しむ」のでもなければ「発作に苦しめられる」のでもない。「発作で苦しめられる」のである。発作=身体は、ここに私としてある、しかし恣意的なものではない。主観的だが恣意的でないもの、それが身体なのである。
日常生活に、身体が全く現出しないかと言えば、そうではない。発作によっていつの間にか開いた私の眼は、例えば掌を眺めてみても、そこに身体を見出す。指を動かそうとして動かす、その限りにおいて掌は身体ではない。しかし、五つに裂け、他にはあまり見られない色合いをしている……このような形状は身体である。私がこのように構想し、造形したのではないから。掌は、そしてひいては生まれ持ったこの肉体は、全く私の意を介さず、ただ在る。この、「ただ在る」という存在の仕方、それを私は「身体」と呼ぶ。
さて、私はいくつかの「身体」について書いてゆくだろう。書かざるをえないように、つまり、欲情――身体的な衝動として。私は身体へ解剖のメスを入れたいのではない。身体へ祈りを捧げたいのだ。後に取り上げるであろう作品の数々、例えば川端康成の『匂う娘』も、いわば一個の偶像である。
私は私の神と交わりたい一心だ。無限との非合理的な交感へ、合理に半ば侵されているこの「私」から。ただ在るモノと交感するために、私もただ在らねばならない。ただ湧く情動だけを手がかりに。あるいは、全てをその情動の鏡像へ歪めて。論理で編む詩としての批評へ。私は、議論の正当性を検証するために先行の言説を参照することはないだろう、そして自らの感ずるところを語る補助具としてしか他者の言葉を用いぬだろう。引用とは私にとって、外部との接続ではなく、内側の拡張である。それは情動の加速装置でもある。
批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!
(小林秀雄『様々なる意匠』)批評するとは自己を語ることである、他人の作品を使って自己を語ることである。
(同上『アシルと亀の子』)
しかし、ベルグソンをはじめとするフランス哲学、あるいは社会学などの諸学問などばかりが懐疑なのではない。身体を語ろうとする時、それを語ろうとすることそれ自体が、語るということの合理性が、既に懐疑であるから。ただ在るモノに、語る余地などないのだから。
「懐疑的に」、「語る」。公共的に、論ずる。
私の身体にとって、私の論理だけが他者である。私は身体を論ずる。それは「祈り」でしかないだろう。
なお公共性は不十分であろう。だから、私の書くものは、批評とは呼べぬ、批評未満である。
しかしそれは、批評から外れはしない。
皮膚の匂い
1
川端康成の『匂う娘』を読むたびに、なにか「冷たいやさしさ」を、私はそこから受けとる。その印象は、川端の文章には常にあるのだが、この小説は私の知る限りで最もそのやさしさを濃く滲ませるものである。
「冷たいやさしさ」、人間を抱擁するのでなしに、無視して通り過ぎるような性質のやさしさ。しかし、冷やかでありながらやさしいとは、どういうことなのだろう。
それを考えるにあたって、まずはこの小説の全体を眺めてみることからでも始めるとしよう。主な登場人物は、二十四歳で勤めに出たばかりの光村という独身らしい男と、その「愛人」であり「十七歳の内気な少女」のあみ子、この二人である。しかし、話の骨格に食い込んでいる光村の詳細は、全くと言って良いほど描かれない。かわりにあみ子の「匂い」や、彼女の父母のことが描かれる。光村はいわば、あみ子を撫でていく視線である。彼女とその父母の物語――父の浮気とそれを気に病んだ母の自殺、その一切は光村に問われることで誘われるようにあみ子が口にする身の上話によって呼び起こされ、そこからゆるりと流れていくかたちで展開されるのだ。
光村とあみ子が待ち合わせる場面から、この小説は生起する。二人はいつも「今の東京では珍しい古寺の門前」で待ち合わせる。あみ子が、旅館や料理店といった露骨な場所も、人通りの多い場所も恥じらうから。
光村の車に、あみ子が乗り込む折に、匂いがほのめく。「化粧はしていないし、香料も使っていないから」、それはあみ子から香るものである。「髪の匂いではなくて、からだの匂い」であり、「強い匂いではないが、(…)あみ子が車にはいったとたんに匂う」。寺からどこか隠れられる場所へ行き、部屋の広さか光村の鼻の慣れか、匂いが感じられなくなるが、「しばらく抱きつづけている」うちに、また漂いはじめる。光村がそのことをあみ子の耳元に囁くと、恥じらって首の根まで赤らむ彼女のからだは、匂いを濃くする。
ところで、この部分の小説作法というのは、果たして健常であろうか。この作法とは、文字通り小説の筆の運びのことで、ここまで私は説明の便宜のために、まず物語の登場人物をすべて洗い出し、話のつくりを大まかに捉えて、それから再びその端緒へいくらか細かく目を向けようとした。そういった私の加工によってかえって分かりにくくなっているが、この小説の作法はどこか異常なのである。というのも、書き出しからしばらく、筆はあみ子の匂いへと捧げられているのである。あみ子と光村のプロフィールや古寺についてのあれこれは、その後に思い出したように述べられていく。書き足されていくように。
もちろん、プロットを語るよりも先に細部的な描写から始められる小説作品など、いくらでもある。全体を見渡せばその方が主流とも言えるかもしれない。しかしこの小説はそれらとは異質に感じられる。それが、物語のイントロとか、そういった域を超えているからだ。
イントロとしての物語の生起は、いわば冒頭から物語を語るための、説明的でなしにいきなり物語へ引き摺りこむための口ぶりである。しかし先にもいったように、ここでは、物語を建築するに資する情報や要素のちりばめがなされていない、それは物語のパーツである感じがしない、そのような、ある観点からいえば無意味な描出が垂れ流される。「強細部」とでも呼ぶべき、あまりに細部的な、物語から過度に脈絡を絶たれた細部が、ここにある。
イントロではない、イントロならば、その先のメロディーを効果的に演出する音階が揺らぎ、その後へとバトンを繋げるはずだ。しかしこれは、ある音楽の前に全く無関係の音楽が演奏されるような感じを放っているのである。そこにはあみ子も光村もいるし、匂いは全編を通底するものであるから、もちろんこの冒頭とそれ以降が全く無関係ではない。しかしそれなのに脈絡がない、モチーフだけが共有されて。まるで、ピアノで奏でられたAという楽曲のイントロから、ふっとピアノ曲Bのメロディーへと流れていくかのようなのである。どちらもピアノで演奏されるから、耳にはわずかに連関をもって聞こえてはくるが、しかしまるで違う。その連関は、一つの繋がりより、いくつもの断片の「響き合い」とでも表現するのが適切だ。
あるいはこれは、物語が駆動する前夜の、主題の暗示のようなものとしての書き出しでも、決してない。主題などといった、小説の表面を超えた深層、抽象的なものを暗示するならば、それは具象としては壊れたものとなる。具象ではない何かを語っている容貌を示すはずなのだ、その違和感が見えやすいにしても、見えにくいにしても。ここには、それが全く見られない。ただ滑らかな具象が流麗に描かれているだけである。このような滑らかな言葉に、暗示が付け入る隙はない。それは具象のひしめく空間であって、抽象は蒸発してしまう。
このような作法を私は異常といっているのである。しかしこの判断には、「それは異常ではなく劣悪なのだ」という批判も可能であろう。物語に結びついた効果を、何ら与えぬ描写で書き出される小説とは、単に拙い作品に過ぎぬのではないか……。
そうでないという予感が、私にはある。いや、正確にいえば、確かに単なる失敗なのかもしれない。しかしその失敗が、凡百の成功を超えたものになっている。この細部の強靭さには、なにかがある。それは「冷たいやさしさ」と密接に結びついている。このことについては、後に詳しく見ていこう。
さて、話を小説の全体を把握することへ戻す。少女のあみ子が、待ち合わせに適するような古寺を知っていたのはなぜか。それは、そこが彼女の家の昔からの菩提寺だからであった。つまり、彼女が十五の時に自殺した母が眠る空間である。
彼女はそこを待ち合わせの場所に選ぶ。そのことに、別に深い意味はないようである。そもそも彼女は墓に大した思い入れがない。
「わたしはお墓などいうものを、あまり信じないんです。母は墓の下にいるよりも、わたしのうちにいますわ。わたしが生きていることのうちに、母がいますわ。光村さんがわたしをはじめて抱いて下さった時に、ふっと、わたしの母もいっしょに抱かれたような気がしたんですよ。(…)
彼女は思い入れの乏しい墓で待ち合わせて、思い入れの深いからだを明け渡しているのである。この、母と光村の二人に対して身を預けすぎているような、二重に危うい告白を、光村は沈黙でもってかわす。彼にとって、そのようなものは重荷に過ぎる。
続けてあみ子は、母が自分の結婚を心待ちにしていたこと、それへの反発で「結婚なんぞしたく」ないように感じていたことを、とりとめなく話す。光村は、はぐらかすように言う。
「あみ子さんは十五のころから、もうあみ子さんの匂いがしていたの?」
「知らないわ。(…)話をそらさないで……。わたしは自分が匂うから、光村さんに愛されているんですか。」
「(…)あみ子さんを愛しているから、あみ子さんが僕に匂い出すんだよ。」
「わたしはその逆だと思います。光村さんにわたしの匂いのことを言われると、こんな恥ずかしいことはないけれど、こんなうれしいこともないの。ほかの男の人にも、わたしがもし同じような匂いがするのなら、死んでしまいたいと思いますわ。」
「匂いをあらわす言葉は少くて、貧しくて、あみ子さんの匂いも的確に現わせないけれども、何万人の女に一人の女の匂いとは信じる。」
「(…)わたしの匂いは、母ゆずりなのかもしれませんわ。母が先きにお風呂にはいっていて、わたしがあとからはいってゆくと、匂いがこもっていたようですわ。(…)
その母は、父の帰りが他の女のために遅くなる夜、きまって眠り薬を飲んだ。そのような夜が重なるうちに、痩せ衰え、昼でも気を空ろにするようになって、匂いも多分は失われて来ているだろうと一緒に風呂に入ることもなくなったがあみ子が推察する折になって、到頭死んだ。医師は、家の名誉も考えてだろうか、「眠り薬の分量をまちがえたのだろう」と診断した。あみ子は信じなかった。父もまた信じてはいないらしかった。
父母へのあみ子の感情は、単純ではなかった。もちろん、母へ同情することはしても、惨めに思う気持ちさえ、ないではなかった。それは、「少女のあみ子」の「生命のあふれ」であった。そしてその純潔が、「母の死によっていくらかかげった」。
対して父には、言うまでもなく憤りを抱きながら、やはり頼みにする心もあるし、母の死後、隣の部屋で寝てほしいと頼まれれば、「さびしいのだろう、心を責められるのだろう」と従いもした。しかし、このようないたわりも、やがて潰える、父への失望によって。父は母の死去からまだ半年あまり過ぎていないというのに、三人の女をつくる。
このような、母の自殺の顛末、そしてその後のことが、光村に誘い出されるように語られてから、果たして小説は終結部へ向かうのである。最後に淡々と、あみ子と光村の、墓へと抱く感情が叙される。
あみ子が光村と待ち合わせる少しの時間に、古寺の門前をえらびながら、母の墓、芝家先祖代々の墓に参ろうとしないのは、母の死を純粋にかなしめないせいでもあった。また、母が一人の女にたいする嫉妬に苦しんだのに、(…)わずかの時間に父の女が三人にふえたことなども、あみ子を墓前に立つのをためらわせるわけだった。
ここで私は、あみ子が、女の数を問題にしているように見えることに注意しておきたい。もちろん、母の死後まもなく女が増えたことは、おぞましいことであろう。しかし、「一人ならいざ知らず三人も」とでも、いいたげではないだろうか。詳しくは後に触れることになろうからひとまず置くが、ここにも私は、この小説の冷酷さの影を見るのである。
光村はよりはっきりと冷ややかである。
光村もまだ二十四歳で、勤めに出たばかりの若さだから、愛人の家の墓にそう心を誘われるわけではなかった。(…)人目の少いのが取柄ぐらいにしか思っていなかった。
2
冒頭部の、物語からの浮遊。これが何か大きな意味を持っているという予感が、私にはある。
この部分は、この浮遊は、なにに因るか。これを考えるにあたって、私はなによりもまず、当該部分を引用すべきかと思ったが、やめた。なぜか。引用するにも足らぬのである。待ち合わせて情事へ入る過程での、あみ子の匂いの濃淡が、麗しく描かれているだけなのだから。
私はなぜ惹かれているか。物語全体の構造としては、父母の反復としての光村とあみ子、と大雑把にはまとめられるとして、そこにも冷たさは認められるが、しかし、全編を読み終えて構造を眺望する時よりもこの無意味な冒頭を撫でているほうが深い冷たさが滲んでくるのはどういうわけか。
ただ匂いのみを綴る色めいた言葉の連なり。「強細部」。
それは「物語」への冷淡な態度である、とはいえないか。匂い――しかも、この場合「からだの匂い」とは、文字通り「肉体」である。「肉体」とは、一体なんであるかといえば、ただこのように在るモノ、である。掌を眺めてみて、五本に裂けていることに何の理由も見つけられないように、「からだの匂い」も、不随意にただ在る。
そのような、モノとしての言葉、そこに終始する言葉。それは、何も語らず沈黙している。決して、「暗示」でも「物語」でもあり得ない。それはただ「在る」のであって、ゆえに何事も「示す」ことはしないし、「語る」ことができない。
私は、たとえば私の掌がこのような形態と色合いで存在していることに、その乾いた味気なさに突き放されるのとちょうど等しく、この冒頭部が冷たい。このことを言い換えてみよう。つまり、「からだの匂い」へ捧げられた言葉たちそれ自体が、「からだの匂い」に似た素っ気なさを帯びている。
しかしここで、一つ疑わしいことがある。果たして、冷たいのは冒頭だけであったか。それは小説全体を貫く生理ではなかったか。
このような疑いが、どこから出てくるか。それは、私がここまで扱った部分が、冒頭部分に過ぎぬからである。つまり、「冒頭」というからには、その先がある。物語は生起しなかった。それなのに小説は続く。ならばどのように続く? この問いと、冷たさが小説全体に漂っているのではないかという疑いとは、一つのものである。生起しなかったはずの物語が、しかし不能なままに、続いてゆく。始まり直しもしない、いや、そのようなことは不可能なのだ。なぜなら、語り始められる瞬間に「からだの匂い」について書いてしまったこの小説は、どれだけ後から物語としての構造を取り返そうとしても、起点に断片を抱えてしまった。あらかじめ物語として脱臼した。
ならば、その後にたちあらわれてくるのは、冒頭と同じような性質のものでしかありえない。物語を構築しない、なにかの暗示を孕まない、ただ在る具象。それが連なる。そこでは、モチーフは共通する。だから何らかの連続がそこにある。その連続が物語の予感ともなる。しかし言葉は、整合的建築物のための資材として、まだなんの意味も持たない断片のままで、散らばっている。散らばり続ける。
冒頭の後はこのように続く。
あみ子は十七歳の内気な少女であったから、光村と待ち合わせるのに、旅館とか料理屋とかはいやがった。(…)待ち合わせの場所は今の東京にはめずらしい古寺の門前が習わしとなった。
ありふれた恥じらいについて書かれた断片の次には、こう続く。
石段を五段上って門になるが、その門の前の右にかえでの大木が一本あった。(…)
断片の連続としてのこの小説は、いままで見てきたように「からだの匂い」にはじまってあみ子の待ち合わせについて書かれ、古寺の描写へと流れる。ここに物語的連続はない。つまり、断片から断片への飛躍には、事件の連動が欠けているのである。断片の繋がりが事件を駆動するなど、ここではありえない、断片はただぽんと浮かんでいる。これは、物語るための飛躍ではなくて、連想としての飛躍である。この連続は、なんらかの意志に貫かれず、ただ在る。物語ではなく、肉体として。モノとして。
この奇妙な性質の連続は、小説全体に繁茂している。作中において紙幅としては最も多く語られる父母のことも、あみ子が光村へ母の匂いについて話した後に、
しかし、あみ子の母は自殺したのであった。
と書き出される。ここでもやはり、断片がただ在るではないか。「しかし」という、断片の間を接続する語が、母の匂いという想念の美しさと自殺の禍々しさとを逆接している、その二つを逆接しているに過ぎぬことからも、連続の肉体性がはっきりと見られる。接続詞が、物語的な事件の推移ではなく、想念の移ろいに奉仕する。
私が感ずる冷たさとは、「強細部」の手触りであった。そしてさらに言えば、そのようなものの集積であるからこそ、本作は全体を通して冷やかな体温を帯びるのである。
3
小説の形態のみが肉体的なのではない。そこで描かれる人間もまた肉体的なのである。人間が肉体的とは、当然のことを言っているようだが、私はなにもあみ子や光村を肉体至上主義的な人物だとでも言いたいのではない。この「肉体的」とは、換言すれば「非人間的」なのである。このような小説において人間は、精神を剥奪され、ただ在るモノとして存在せしめられるのである。それはまるで「娼婦」に似て。
人間から遠く離れた「娼婦的」な登場人物とは、どのようなものか。この問いはすなわち、肉体的であるとは如何なることか、という問いと重なる。
ただこのように在るモノ、掌を眺めてみて、五本に裂けていることに何の理由も見つけられないように、不随意にただ在るもの。それが肉体である。そのような存在の仕方とは……。
「(…)わたしは自分が匂うから、光村さんに愛されているんですか。」
「ばかなことを……。あみ子さんを愛しているから、あみ子さんが僕に匂い出すんだよ。」
「わたしはその逆だと思います。光村さんにわたしの匂いのことを言われると、こんな恥ずかしいことはないけれど、こんなうれしいこともないの。(…)
この小説においては、愛という精神性でさえ、匂いとして発露する。言葉でもなければ、行動でもなく。これが何を意味するか。「愛している」という言葉でも、それを示す行動でもなく、たんに匂いによってそれを嗅ぎ取らせる存在とは、これは全く人間的ではない。肉体としてしか存在していないのだから。このやりとりが、どこか睦言めくのは、そういう理由である。精神が剥奪されて肉体が響き合うところに、なまめかしさが宿らざるをえない。
ここで見落としてはならぬのは、あみ子自身にも、匂いの出るわけがはっきりと自覚されているのではないということである。曖昧に、しかし愛のためというようにしか感覚的には読めぬかたちで書かれながらも、そうと言明はしない。正確には「言明しない」のではなく「言明されえない」というべきなのだ。なぜなら、匂いとは肉体だからである。肉体、不如意なもの。匂いとは、あみ子にはどうにもならぬ、不如意なものとして存在している。だから、その理由を愛であるとはあみ子にも言えない。匂いは、ただ発せられる。
つまりあみ子は思いのままに愛を語ることができないのだ、二重の意味で。愛は匂いでしかない、さらに匂いは肉体でしかない。このような意味で、光村を愛するあみ子の存在性は娼婦的なものとなる。匂いでしかあれぬもの、あみ子。
しかも、右の引用部は、母への連想へ飛躍してさえゆく。
「(…)わたしの匂いは、母ゆずりなのかもしれませんわ。母が先きにお風呂にはいっていて、わたしがあとからはいってゆくと、匂いがこもっていたようですわ。光村さんにわたしの匂いのことを言われてみて、あれが母の匂いだったのかしらと思い出すの。母の膝に抱かれて洗ってもらうのが、うっとりうれしかったわ。」
妖しいような男女のやりとりから、かくのごとき断片へ移ろう筆を、禍々しいほどになまめかしく私は感じる。睦言のはずみに母を偲ぶこと……ここには人間への苛烈な蹂躙がありはしないか。
あみ子ばかりが娼婦なのではないのだ。娘に、匂いによって思い出される彼女の母も、娼婦として存在させられている。匂いによって想起されるとは、肉体へ存在を還されているということなのだから。想起されるものとしてのみこの断片に存在を許されているあみ子の母の、娘に等しい娼婦性は、この断片に、先に引用した光村とあみ子のやりとりがどことなくなまめかしかったことを併せて見ても、よりはっきりすると思う。なまめかしいのは、そこに肉体が、肉体以外を疎外することによって、まざまざと現れていたからである。そして、このあみ子の母の記憶は、睦言をこぼしたばかりの舌の上に、そのまだ濡れたままの赤い肉の表皮に、漂ったのである。
あみ子の母が娼婦であること。これは言い換えれば、愛と同様に親子なる関係性が、娼婦と客の交わりのようでしかあれぬということなのだ(補足しておけば、娼婦に対しては客も精神を贈る余地がないから、娼婦でしかあれない。つまり娼婦と客とは、いわば二人の娼婦ではないか)。この小説において、愛も親子も、このような冷たいものとしてのみ存在しえる。
さて、ここまで少し、人間が肉体でしかない事態について私は考えた。この小説を材料として。
ここから更に考えを深めたい。そのような事態へ、もっと目を凝らしたい。そのために『匂う娘』から一端離れてみたいと思う。人間が消え肉体が氾濫する事態の、他のかたちへ、視線を向けよう。その作業を通過することによって、この小説もより把握されることだろう。
【続く】
より激しくアイドルを崇めるために――山口真帆事件を発端として
今回の事件を知った当初、犯人たちを狂的なキモオタであると思い込んでニュース記事を読んでいた私は、まずはじめに彼らを憐れんだのだった。私はドルオタだが、しかし、彼らの犯行について、アイドルへの同情はない。私はアイドルという存在に心を寄せることを常日頃から禁じているからである。そしてまた、同情は、二人の男に私が抱くのと同じ欲望を見たがゆえなのである。
狂わしいほどにアイドルを愛してしまう者に向けて、私はここに一つの救いの道を示してみたい。それは、私が私自身を救うことでもある。
山口真帆事件、と言えば全て伝わるだろうから、ここでは事件の詳細の記述は省く。そもそも私はこれを、こう言って伝わらぬようなアイドルに関心のない者に向けて書くのではない。ドルオタにより広く読まれることを願って書いている。
ドルオタ、と一口に言っても、私が想定している連中は限られている。それは「アイドルを愛するのも趣味の一つだ」と声高に叫ぶことのできるような武井壮的ポジティブオタクでもなければ、アイドルを等身大の人間として扱いあくまで入れ込まず「面白がる」吉田豪的サブカル趣味オタクでもない。アイドルへ過剰な信仰心を寄せずにはいられない者――たとえば自らの愛したアイドルを刺し殺し、またたとえば彼女らと特別に深い繋がりを持つことを欲望し、またたとえば、彼女らを強姦してしまう(あるいは今回のケースに即して言うなら、彼女らにそそのかされれば罪を犯してしまう男たち)、そんな、オタクというよりもキモオタと呼ぶに相応しい者らのために私はこの文章を書く。なぜなら、私がその一人だからである。
私はライブ中にオタクらに視線を送るアイドルというのが、嫌いである。だから現場に足を運ぶといつも、私は彼女らを見つめはするものの、視線が返ってきそうになった途端に俯いてしまう。うかつにも見返されてしまえば、その場から逃げたくなる。私には理想のアイドルライブがある。ステージがマジックミラーに囲まれていて、オタクは彼女らから一切見られず完全に一方的に眼差しを送る存在となる……そんなライブをこそ夢想している。
私は一方的に見ることを求めるのだ。見られることは恐ろしい。見られる、いやもっと言えば私が見る者に見られる、「互いに見合う」というのはつまり、私と彼女らの間に「人間関係」が生まれてしまうことを意味するから。その関係がひどく薄いものでも、たとえ疑似的でも、人間関係があるというそのこと自体に私は耐えられないのだ。
人間関係への欲望が誰よりも激しいゆえに、私はそれを欲さない。ここで言う人間関係とは、愛と言っても良い。
私は愛を欲して、そして同時に愛されぬことに怯えてもいる。
愛による無限の承認への渇望が強まるほどに、それが不可能であることへの怯えもまた深まる。
私のようなどうしようもない、それこそアイドルにすがるしかない男が、こんなふうにヤンデレじみた言葉を吐くことを嗤いたければ嗤ってもらって結構だし、マゾヒストとしてそれはそれで嬉しくもあるのだが、話を戻すと、つまるところ愛をもはや欲望してはいないのである。
そもそも、アイドルにおいて、愛は不可能ではないのか。なぜならまず人間に愛が不可能だからである。愛の無限の承認、くだらない。誰かが、誰かを無限に赦すことなどありえないのは、私が誰かをそのように赦すことができないことからよく知っている。ある人は言うかもしれない。愛の欠如は単にお前の性格であって、どこかに真の愛をもちうる誰かは存在して、私はその相手を探し求めればいい、と。
そうかもしれない。しかし、愛を与えられぬ者が、果たして愛を与えられるのだろうか。これは、私のようなキモい男は誰にも愛されない、ということではない。愛される、ということすらも上手くできないのではないか、と怯えるのである。そして、他者に問題があるのではなくて、私自身が愛を受け取ることのできない不具者であるのなら、愛は存在しないのと同じである。少なくとも私にとっては。
たとえば聖母のような誰かに、私は愛されたとする。私は無限の承認を得る。満たされる。幸せだ。これこそ求めていたものだ。
幸福の膨張とともに、その滅亡への恐怖も加速するだろう。愛されない、のは二度と嫌だ。そのためには? 愛される私でなければならない。
愛される私、彼女が愛する私……なんだか息苦しい、しかし愛が失われるよりはマシだ、愛されるならすべてよし……。
果たして、私はいずれ聖母の前から逃亡する。
なぜならば、いずれ愛されなくなるであろう私の醜さを、他でもない私こそは、知り過ぎているから。冷静になれ、お前がいつまでも愛してもらえるはずがないだろう、と私は自分自身をなじるだろう。するともはや、愛されなくなるのではないか、という怯えは、怯えを超えてやがて来る絶望への確信に変わる。
だからこそ、去られる前に去る、愛を知らぬエゴイストとして。
聖母を仮定して愛を否定してはみたが、聖母というのにも無理がある。そんなものの存在を信じてはいない。信じられるはずがない。
だからほどほどの人間関係で満足しろ、応援し、癒される、それでもう十分ではないかと言う者がいる。そう思える人はそれでいい。しかし私はそう思わないという、ただそれだけのことだ。私は現実の「人間関係」なるものにほとほと嫌気がさして彼女らに救いを求めたのだ。それなのに、ほどほどに、とは……。ここでも、逃げてきた地獄と同じことをしなければならないとは!
「人間関係」を求めるならば、なぜ彼女らを相手に選ぼう。アイドルが、同級生や、同僚や、親兄弟や、友人や、恋人や……それら現実の他者と違う点は「偶像」であることである。こちらの願望を体現してくれる、もっと直接的に言えば、私の欲求を受けいれてくれる存在であることである。
「しかし、その存在も所詮は人間であって、現実の他者と違わない一人の他者であって、何事もほどほどに」
……ならば現実社会で健常に日々を営んでいれば良いのだ!
ゆえに、私は愛を欲さない。私はアイドルとの接触にもほとんど出向かない。たまには金を落とさなければと思うと、グッズを買う。私はグッズには興味がないのだが、大量に、無駄に。それでも彼女らの掌に触れたり、目を見て言葉をかけられるよりは、よほどましである。無駄遣いで失われるのは金だけだが、接触で失われるのは一方的に見つめる特権である。
一方的に見つめる特権が失われて、何が悪いか。
つまり、言葉をひねれば、その特権は私にいかなる恵みを与えるか。
さらに言おう。見られないことは、なぜ私にとって快楽なのか。
答えを先回りして述べれば、私はある信仰を、愛に代わる幻想を、聖母に代わる姿を、彼女らに見ているのである。そしてその信仰は、見られないことによってこそ成立するのだ。詳しくはこれから説明しよう。
神。私のすべてを託せるもの。私のすべてを赦してくれるもの。身を任せられるもの。私を痴呆にしてくれるもの。無限。
確かに愛とは無限である。しかし愛は決して到達できぬ地点である。
仮に彼女らを殺しても犯しても、愛は不可能である。そもそもそれらの尊い愚行は、愛の挫折の結果でこそあれ、愛への道ではない。愛の不可能性を前にして、キモオタはそれでも救済を望むのならば、新しい無限を見つけなければいけない。聖母ではないかたちの神を。
アイドルがそれである。彼女らを、愛とは他のかたちの無限であると信じるのだ。だから私は愛に見捨てられてなお、まだまだ彼女らを崇められる。
聖母ではないかたちの神とはなにか。
それは、娼婦である。娼婦は聖母と相対するものであり、私はアイドルを娼婦として見る。なぜなら、そのほうが彼女らを聖母と見るよりも、救済に近いから。
聖母ではない彼女らは、しかし娼婦ではあるのだ。
ゆえに神なのである。
娼婦とは、欲望をすべてその身に引き受ける存在である。私たちはいかなる欲望も、彼女らへ吐き出す。すべてを託す。
そして娼婦は、聖母が私のすべてを果てしなく抱擁するのとは反対に、果てしなく突き放す。
聖母が私の欲望に応え続けることで、私の欲望を解放してくれるのだとすれば、娼婦は私の欲望を無視し続けることによって、私の欲望を解放する。
この「無視」を誤解してはいけない。それは欲望の拒絶ではない。完全なる「無視」は拒みすらしないのだ、私など心底どうでもよいから。娼婦は絶対に私を抱擁しないからこそ娼婦なのである。
私は娼婦に欲望を吐き出すが、彼女らはその欲望をただ受け入れるだけだ。応えてくれる声はない。抱きとめてくれる胸はない。なんと虚しいことだろう。しかし、その虚しさは、聖母の愛と等しく無限である。だから娼婦は神なのである。私の欲望は、包み込まれるのではなく放り出されることで、完全に赦される。
アイドルはいまだ神でありうる。ただし、人間関係を徹底的に排除する限りにおいて。
それは、アイドルを人間的に見ることを放棄して、ただ私の欲望を体現する物として、消費することである。その時、彼女らは娼婦である。私の欲望を引き受けながら、しかし応えはしない。
もう少し具体的な話をしよう。では、アイドルを娼婦として消費するとは、どのようにすればよいのか。私がさっき書いたマジックミラーステージでのライブというのはその一つだが、それは理想に過ぎぬから、現実に即したことを言おう。
私が最も愛するアイドルの消費方法は、写真である。写真とは、こちらが一方的に見つめるものである。しかも、目で見て、手で触れることによって、彼女を存分に貪ることができる。欲望が解放されてゆく。私は矯めつ眇めつ彼女らを貪る、見返されることなしに。
詳しいことはこちらで書いているので読んでほしい。
夢みるアドレセンスの京佳(私の最も崇拝する神の一人)の写真集について書いている。
最後に、繰り返しになるが、言っておこう。
私は、アイドルに過剰な祈りを捧げる者、すべてを受け入れてくれる神を望む者のためにこの文章を書いた。それは私自身でもある。
もしもあなたがアイドルを愛することで救われようとするならば、彼女らがあなたを愛してくれないことによって、あるいは仮に愛してくれたとしても愛が我々のようなクソ野郎には不可能であるせいで、どの道ろくな最後は待っていない。
愛とは別のかたちの救いを、聖母とは別のかたちの神を、私は求め、そしてここに記したつもりである。
アイドルを狂わしいほどに愛し、そしてゆえに苦しみ続けている者に、私の言葉が少しでも処方箋として機能すればこれ以上の幸せはない。
どうか、彼女らは聖母ではなく娼婦なのだと、信じて欲しい。
ままならないままうつくしいまま――川端康成「生命の樹」
たとえば、バイトの出勤前に憂鬱な気分を抱きながら読むと面白い小説、職場へ何の連絡もなしに欠勤した後でヤケッパチじみた倦怠を覚えながら読むと面白い小説、というのがある。要はなんとか踏み止まるところにおいて深まる味わいと、全てを投げ出したところに初めて見えてくる味わいの二つがある、ということだ。これから語る作品は後者に類する。
こちらへ区分される小説とはどういったものか。バイトを無断欠勤して、この先も行かないだろうとぼんやりした決心を持て余す、あるいは、ほんの荒んだ気まぐれのままに好意はおろか悪意すら向けていない金で買った誰かの身体を石ころのように乾いたその肌を、欠伸をかみ殺して撫でながら、殺したいほど嫌いな相手を求めるほうがまだ良かったのではないだろうかなどとどこか我ながら暢気に首を傾げる……そういう瞬間にこそ染み入る小説とは一体どのようなものなのだろうか。
どうしようもないままならなさを、ままならないままにしていてくれる空ろとは。
ままならなさは如何にして治療されうるか。ままならなさはどこから生れて来るか。
そういうことについては書きたくない。ここでは、不能であることを最初から前提としたい。そしてもっといえば、その改善ではなく、居直ること、不能であるままに救われる道を探りたいのである。萎びた性器を股にぶら下げて、効果的な薬剤や治療を探し求めるのではなく、萎びたまま得られる快楽を待ち望む。たとえば、夢精を祈り幾度も眠る。
なぜなら、そもそも、もがけないという不可能性こそが不能だということだから。不能であることについて語るのは、はじめから何もかもを諦めることなのだ。しかしそれは、救われてはいけないということでは、もちろんない。迷惑がられ、軽蔑され、嘲笑われていても、救われていい。
ただ快楽を摂取するということを、私は欲する。不能なまま、それでも、あるいはそれゆえに可能となるような快楽を、舐めていたい。
不能者の快楽主義――ここにおいて、不能であることは快楽の性質を限定するとともに、快楽主義の根拠でもある。つまり、全てがままならないのだ、欲望に身を流されていくより仕方ないのだ。それが不能だ。これ以外にどのような生理が可能であろうか。この意味では、もはや私の拠って立つのは快楽「主義」ですらない。選択したのではない。ただなにもかもがままならない、身は流れていく、こういう状態が勝手に存在するだけのことだ。より深い悦楽に酔い痴れることを、求めずにはいられない。
しかし遂に、もしも快楽の極致において、怠惰であることの不安や苦痛さえ忘れ去ることができるのなら。不具の身体で崇高を享楽できるのなら……。
川端康成の短編「生命の樹」を読むたび、私はそこに何も述べられていないことに、いつも驚く。
随所に流れ込んでくる自然によって、なにもかもはぼかされていく。物語も、心理も、意志も、ままならない。ぼんやりと漂っては、自然に包まれる。
すべては自然の描出へ溶かしこまれる。
花や日の光のように、ただあるもの、として、存在させられるのである。涙が星の光になり、星の光が涙となる。
深層を剥奪し、思弁を殺し、ただ物としての物だけの氾濫を誘発せずにはおかぬ、自然という魔。
曖昧さは、もはやない。すべてが冷やかに存在している。作中にはなにも「述べられて」いない、なにもかもは「描かれて」いるに過ぎないのだ。
ままならない。ただあるに過ぎない。放恣であるしかない。その辛苦を美へ昇華すること、不具の極まりにたとえば少女の死体をみること。なにもままならない、というふうに一切を引き受ける眼には、何物も、美しく映る。ままならない、ただある、という純粋さによって。
「生命の樹」とは、全てを純化する祈り、あるいは呪いなのだ。
戦争も、恋も、生も死も、樹々に飲みこまれて「自ずと然り」に、澄み透る。
全ては冒頭にありありと示されている。
戦時中、特攻隊員たちが拠点とした基地の水交社にいた啓子が、死んだいった特攻隊員・植木への恋慕から自分も死ぬことを想いつつ、命拾いして復員した隊員の寺村に連れられて植木の母へ会いに行く。そのような政治的でもあると言える作品が、
今年の春もやはり、春雨のやわらかく煙る日、春霞ののどかにたなびく日は、一日もなかった。
あの春の日は、日本からうしなわれてしまったのだろうか。
去年までは戦争のせいで、季節も狂っているのかとも思っていた。しかし、戦争が終わって迎える今年の春にも、あの日本の春らしい空はかえってこない。
このように書き出されることに、私はたちまち歓喜するのだ。戦争の狂騒も、残留する戦禍も、春の空へかえされる。
しかしこれだけでは純化には足りない。このような描かれ方では、自然は心象であり一つの象徴であると読めてしまうからだ。むしろそう読むのが普通であろう。そして、そのように読まれるならば、自然はただあるものとしては存在しない。心理や物語の奴隷へ堕落する。そこにはもはや、純粋に物として屹立している、ままならない物体というのはありえない。なすがままになる、あるいはなすがままであろうとする存在が、駆動してしまう。
先の引用部から続いて、さらに恋も空へかえされるが、それでもまだ自然はその真価を発揮しない。
植木さんたち、あの特攻隊の若い人々が空から還って来ないように……。植木さんたちと共にいた私の、あの愛の日が返って来ないように……。
ほとんど陳腐な感傷も手伝って、自然はやはり象徴でしかないのではないか、と疑いたくもなる。しかし、注意深く立ち止まってみれば、この文章にもおそろしいものとしての自然がちらりとのぞいているではないか。
先からこの引用部に至って、空というものの、その言葉の手触りが微妙に変化しているのを見落としてはいけない。戦禍をそこに映じている限りでは、空は象徴としての空であって、空そのものではない。しかし、特攻隊員が行きて還らぬ場所、という意味において空は、散華の象徴のようでもありながら同時に、彼らが飛び立った先、そしてそこからは二度と降下してこなかった地点、という純粋な位置としての空でもあるのだ。
ここに仮に海という語を置くならば、それは象徴としてしか機能しない。しかし空は、この世界から手の届かない、生から遠い死の象徴でもありながら、端的な事実として彼らの飛行した場所でもある。
このように、ただあるものとして、空が広がる、すると、先の引用部において空にかえされた戦争もまた、思うがままに起こったことではなしに、ただあるもへと、その容貌を変える。いわば空の純粋さに包み込まれるようにして。
先までとは、空と戦争の位置が逆転した。
空は空としてある。日は光る。雲が流れる。恋も彼らの死もまた然りだ。すべてが純化される。彼らが消えた空はただある、ゆえに、彼らもただ生きただ死んだのだった。すべてはままならなかった。
ここで、なぜ空が戦争を包み込むのか、戦争が空を隷属しないのか、と問う人がいるかもしれない。しかし、空の青いことを一体誰が疑えよう? 戦争を人間的に問うより、空を眺めるほうがやさしいという、ただそれだけのことでしかないのだ。
空の青さを疑えぬ眼、素朴な、ほとんど痴呆じみた、うっとりとした眼には全てが、ただある。この眼は空を『春雨のやわらかく煙る』『春霞ののどかにたなびく』というようにしか見ない。緻密な観察はない、観察とは見るのではなく読む、描くのではなく述べる、ままならないものではなく思うがままのものだから。あるように見ることに止まる眼。それこそが戦争を自然のように見得る眼なのである。
止まる言葉、何事も述べぬ言葉、ままならない言葉――それは全てを純化する。自然という純粋物とともに繁茂するようにして語られていく万物の透明化、つまりそれは言語の問題に引き込んで言えば、そのような境における言葉の物化である。
言葉は物となる。意味を脱する、のではない。音へいたるのではない。それは不純である。言葉は意味を持つから言葉なのだ。
私が本作にみる言葉とは、意味を持ちながらしかし何事も述べぬ、解釈を拒んで感触しか持たない、そういう物体なのである。それはままならないものをままならないままに表象する。
こんど、寺村さんに連れられて東京に来る東海道でも、関ヶ原あたりの柿の新芽、遠江の槙垣の新芽、駿河の茶畑の新芽などを、私は一心に見入っていた。(中略)
私は木々の新芽を一心に見入っていたと書いたが、無心に見入っていたと言った方がいいかもしれない。私は自然の死ぬつもりさえ忘れて、新芽の世界を眺めていたのだった。
しかし、寺村さんに呼ばれて、自分が死ぬつもりでいることに気がついてみると、自然がこんなにあざやかに見えるのは、私の心にある死のせいかもしれなかった。
たとえばこのような部分に、言葉の物化は顕著だ。
一心に見入っていた、とおもえば無心になる、しかしその無心も「かもしれない」と、控えめに留保される。とはいえ、その後に続く一文で無心であることはほとんど自明のこととなっている。そこに重ねるように、またしても「かもしれない」というかたちで曖昧に思い巡る死。
文脈の攪乱と「かもしれない」の氾濫は、言葉の不安定な溶け合いを招来する。しかし、先にもいったようにこの文章には独特の鮮明さがあり、ともに不鮮明さもあり、曖昧なようでいてどこかはっきりしている。攪乱と氾濫、鮮明な。
もはや不安定ではない、安定した方向をもっている、しかし曖昧さを孕みながら。
言葉が物化する。直線的な文章が引き起こす「理解」をかわし、脱意味化した言葉が意図せず呼び込んでしまう「解釈」をあらかじめ殺すのである。ここに、意味しか意味しない言葉、ただあるものとしての言葉があらわれてくる。言葉は構造として建築されていくのでも、解体されていくのでもない。浮かんでは消えるのだ。
このような言葉に私は、読むのではなく触れる。その奥へ進まない、進めない、深層などというものは存在しないのだから。手といわれれば手であり、首といわれれば首でしかない。私はその意味を考えるのではなく、その言葉の流れに身を任す。意味ではなく印象に溺れる。『新芽の世界』に躍るのは、葉と光、ただそれだけだ。希望でも絶望でも、未来でも過去でも、決してない。
死の響きのなかで瑞々しい葉と光が眩い。美しい。
「星が出てるなあ。これが星の見納めだとは、どうしても思えんなあ。」と、空を見上げならおっしゃった植木さんが思い出される。
植木さんには、ほんとうにそれが、星の見納めだった。
植木さんはその明くる朝、沖縄の海に出撃なさった。(中略)
植木さんが悲しそうにおっしゃったわけではなかった。無邪気な調子だった。御自身で御自身が合点ゆかぬような風で、
「どうもおかしいね。死ぬような気が、なにもせんじゃないか。星がたんと光ってやがら。」
「そうよ、そうよ。」と、私は追いすがるように言った。胸がふるえた。
いいことよ、ちっとも御遠慮なさらないで、手荒く乱暴なさいよ、とでも言いたいのが、私の「そうよ、そうよ。」という声だったらしい。私は抱きすくめられるのを待っていたようだった。
悲しみに突き刺された私の胸に、なぜまた突然あやしい喜びが突き上がって来たのだろうか。
このような境においては、言うまでもなく、人間の存在それ自体もまた純粋である。ただあるものでしかない人間、ままならない人間。
主人公の啓子も自然に等しい。彼女は不思議に処女と娼婦の容貌をあらわしながら、しかし一つの身体として、ただある。
先の引用部から流れてゆくと、このような文章に行き着く。
明日死ぬお方だから、なにをなさってもいいと、私は思ったようなのに、植木さんは、明日死ぬ身だから、なにもしないと、お思いになったのだろうか。
もうどうするもしないもない、植木さんは、ただ、星空と同じように私を感じていらしたのだろうか。それならなおのこと、そのように美しい私は、一生に二度とないように思う。
これは果たして処女か娼婦か。清純な一本気でもあり、すべてを飲みこもうとする放恣でもある。揺らぐ。そのことによって、どのようにも「理解」されず、どのような回路にも回収されない。
そして、すべては「私」によって囁かれていることも忘れてはならない。ここには肉声がある。一人称の官能性が、このような作品においてこのような言葉と溶け合う時に、真に光り輝く。
どのように、なぜ、と問うことができない物体。この身体。肉声。
揺らぐことによって身体と化した言葉を、肉声が受胎する。啓子という存在は、肉声であることによって、さらに存在を純化される。私は肉声を前にして、その奥へ進むことが叶わない。声に意味などない、ただ温度と匂いがあるのみなのだ。
先の引用部は、以下のように続く。ややもすれば唐突ともいえるこの移ろいは、しかし論理的な脈絡ではなく、感性的な、ただあるとでもいうべき性質の連想に貫かれている。
小山の多い、あの基地の五月は、新緑が私の心にしみた。植木さんたちの隊へ行く野道の溝に垂れつらなる、野いばらの花にも、植木さんたちの宿舎になっている、学校の庭の栴檀の花にも、私は目を見張ったものだ。
どうして、自然がこんなに美しいのだろう。若い方々が死に飛び立ってゆく土地で……。
死の匂いの色濃いこの地で、啓子は植木に連れられるがまま、娼家にまで足を踏み入れる。なにごともなく、しかしけがれた遊びの横顔をちらと見て、娼婦から子供扱いされ恥と屈辱だけはうけて、童貞処女のまま娼家を出る。
啓子はその日を、電車で自死を想いながら追憶する。
「君は、ここの女を軽蔑するかい?」
「いいえ。――罪なき者石もて……。」
「そうか。僕は幼稚な感傷家で、虫のいい夢想家だ。ここから飛び立つ僕らが、汚してゆくたびに、その女は浄化されていって、おしまいに昇天しやせんかと、思ったりするんだがね。」
私はあきれたけれど、これも後では、そんなことをおっしゃったお方のために、私という女一人くらい、あとを慕って行ってもいいような気がする。
それなら、あの時、私を昇天させて下さればよかりそうなものに。私はなにも惜しくなかった。私はそんなに清い娘ではなかった。
あの夜、私は水交社に帰って、ぐったりつかれきって、朝まで眠れなかった。なぜ、私を殺しておしまいにならなかったのかと、お恨みしていた。(中略)
あれは植木さんのお心の突発事件だった。前後のお考えはなかった。それでなお、私はありがたい。愛の噴火としておこう。
愛は噴火であってこそ美しい。その刹那、愛は、ただ、愛でしかなくなる。愛だけが中空に浮かぶ。根のない華のように。影のない光のように。心ない涙のように。ままならず、ただそうあるしかなかったという境においてこそ、全ては純粋なのだ。
さらに、啓子の愛までも軽やかである。
私にだって、その後、基地の星の下でも、近江の家の台所でも、こんな噴火があったではないか。私をさしあげていいと思ったり、死のうと思ったり……。
彼女は自死を想う。しかし既に自死は為されたといえよう。はじめから自などというものはなかったのだから。既に死に、そのことでかえって真の生であるこの身体が思い巡る死とは、なんと美しいか。一粒の涙が儚く流れている。しかし、それはふっと地に落ちるよりもはやく、虚空に凍てつく。
極めて小さなこの結晶に、空の青と光が透けるのである。
窪んだ舌を撫でるーー京佳ファースト写真集「Thankyouka!!!」における母乳の匂い
アイドル写真集は無数に流通しているが、アイドル写真展というものは皆無に等しい。少なくとも、あったとして、私は足を運ばない。なぜなら、写真集という媒体は手に触れることができ、写真展ではそうはいかぬからだ。
アイドルという、記号(スター)と生身(生活者)の間を漂う奇妙な身体を、まさぐる。それがアイドル写真集である。
記号と呼ぶには生ぐさく、生身と呼ぶには媚態という一種の類型へ洗練されている彼女らの身体は、欲望されるための身体といえよう。この宙吊りが満たすのは、欲望のうちでも、最も怠惰な性質のものである。つまり本能的な欲情である。獣としての欲情、あるいは、文化的に物心つく前から刷り込まれた欲情である。
それは限りなく身体的な欲望だ、怠惰であるとは身体的であるということだ。
ゆえに、アイドル写真は、額に縁どられ一定の距離をもって眺められてはならない。距離は身体を冷却し、精神の漲る空白である。たとえ我々が距離において身体を熱する時があるとしても、精神の、思考の駆動した末に、身体が召喚されるのだ。これは身体的快楽である、と理解することによって。
より怠惰であることを求めて。
だから、アイドル写真は紙として流通し、この掌で直に撫でられねばならない。その時、彼女らの身体は怠惰なままに貪られる。欲情はいつの間にかやってくる。いかなる苦労もなく引き起こされる。その欲情は、いかなる思考も解釈も、必要としない。私はただ撫でているだけで良い。撫でられるものとしてのアイドルの身体は、欲情を満たす物それ自体であって、その他の何物でもない。
写真でなければいけないのか。映像では駄目か。駄目だ、触れられない。写真集は紙という物質であることに加えて、瞬間である。映像のように、時間なのではない。時間とは触れられぬものだ。私たちは時間に触れられない。
触れる、ということは瞬間だ。十秒分の痛み、などというものはないのだから。一瞬の痛みが、たまたま十秒続くだけのことである。触覚はいつも瞬間のうちにある。熱も、痛みも、疼きも。女体の肌のなめらかさも。この意味でも写真とは触れられるもの、怠惰に欲望されるものなのである。
アイドルは、疑似恋愛の装置に成り下がる時、その魅惑を失う。
いや、もっといえば、恋愛のみならずどのような関係性も彼女らの神聖とは結ぶつかぬ。たとえ疑似でない恋愛であっても、あるいは友情であっても、応援であっても……。
彼女らは、直接的なコミュニケーションの次元ではなく、写真のように間接的な形式において触れられねばならない。触れる、ということの快楽は、皮肉にも、直に彼女らの身体に触れることでは生まれえないのだ。もし仮に、握手どころか性交を赦すアイドルがいたとしても同じことだ。接触のレベルの問題ではなく、直接に触れてはならないのだ。その時、我々は彼女らをまなざすだけでは済まず、まなざされるから。関係性が発生する。
あらゆる関係性なるものはアイドルをけがす。なぜなら、その欲望されるための身体とは、関係性に絡めとられてそこに憐れみであれ憎しみであれ人間的な何物かが介在すると、欲望されるためだけに存在するのでなくなるから。関係性を夢見て、身体の奥へ人格を仮想した途端に、彼女らの眼はこちらを見る。見られるだけの身体でなくなる。欲望されるための身体ではない、人間になる。物から、人間へ。
だから、できるだけ怠惰に。ただ欲望せよ。ただ待ち惚けよ。
さすれば、いや、さすればこそと言おう、我々は彼女らを存分に撫でられる。我々の手はふり払われはしない。握り返されぬことを悲しまずとも良い、握り返されることはふり払われることと同じだ。握り返された私の手は、もはや怠惰に、思うままに撫でまわすことを許されないだろう。撫でられたい欲望と、撫でたい欲望の、折れ合いが始まる。
何度でも言おう。怠惰でなければならない。どうせ怠惰でしかあれぬのなら。
足掻くことはやめて、安らかな午睡につかないか?
そして、白昼の光に溢れた夢のなかへ。
帯にこんなキャッチコビーを掲げる写真集がある。
『オトコゴコロを一番わかってる17歳。』
夢みるアドレセンスのメンバーである京佳のファースト写真集である。そこに映し出された彼女の姿を一目見れば、このコピーにも肯ける。
幼い顔つき、記号的なほどに均整のとれた眼、そのとろりとした円み、また豊かな肉づき、穏やかに広く大きく膨らんだ乳房、しかし成熟という強靭な眩さの一歩手前にある身体、母なるものではなくむしろ幼児を連想させるような、柔らかさ。
透明な痩身の幼さは少女の幼さであり、彼女のような輪郭の膨らむ身体の幼さは幼児の幼さだ。女体は生まれ落ちて幼児から少女へ至り、そののち思春期に輪郭の溶解によって膨らんでゆく、そしてやがて、新たな輪郭をもつ、成熟する。この思春期=溶解期に、彼女らはいわば幼児へ戻る。母乳の甘やかな匂いを纏う、しかしそれは母の乳房でなしに、自らの乳房によって。
ならば幼児として、あるいは最も幼い母として、彼女の身体は私の欲望を抱きとめる虚ろな穴となるか。否、なぜなら限りない受容は、関係性の萌芽となるから。やさしさを向けられる時、やさしさを向けられる私が生まれてしまう。
私はいかなる目にも見られたくはないのだ。どれほど温かな眼差しにも。それは温かく見守られるべき私を要求するから。
しばらくページをめくるうち、はじめて笑顔の写真がある。ここで私は、手を止めざるをえない。彼女の口元に鋭い歯が、八重歯がのぞいている。
幼児的な、球体的な身体から、隠されていた鋭利なものが露出する。
突如として幼児性は破れる。内側から鋭利なものに切り裂かれる。彼女の赤い舌の両側は八重歯によって窪んでいる。溶解した身体は、像を結ぶことないままに、柔らかなままに、しかし鋭さが皮膚の裏に横たわることで金属的な冷やかさを薄く帯びる。丸みと尖りが混じり合い、溶けたまま急速に冷凍される。いわば亡骸になる。生々しくも、冷やかな。冷たくも、生々しく。彼女の身体は八重歯をのぞかせるとき、死に近づく。つまり、関係性を拒絶するのだ。ここにおいて遂にこの身体は欲望されるための身体として完成した。
丸み、幼児、柔らかさ、母乳の匂い。それは最も根源的な、怠惰な媚態のかたちといっても良い。幼さとは媚態である。しかしページをめくると、忘れかけた頃にあらわれる、媚びをえぐるもの、鋭さ、冷たさとしての八重歯。
ならば彼女の身体は、媚態性を喪ったものとしてあるか。そうではない。ここにおいてその身体は、全く新たな誘惑を獲得するのだ。関係性を拒絶し、決定的に繋がることなく、しかしなおも媚び続けるのだから。柔らかさと鋭さは互いを無化しない。柔和な鋭さ、鋭利な柔らかさとして、彼女の身体は、関係性を否定することで欲望を放埓に受け入れるだけの、虚ろな穴となるのだ。
それは窪んだ舌に似ている。
欲望の抱擁がかえって関係性を萌してしまうことを、彼女の身体は知っている。私にただ欲望されるためだけの身体であるために、私を拒む。柔らかい皮膚の裏に冷やかさを匂わせる。私は欲望のまま、思うがまま身体に触れられる。決して抱きとめられることのないという虚しい安らぎのなかで。まるで娼婦と戯れるように。
ここで断っておくべきかもしれない。私は怠惰でありたいからこそ、冷やかさに常に怯えていたいのだと。
ある人は言うかもしれない、なぜ彼女の身体がお前を拒まねばならぬのか、お前が拒みながら酔いしれていればよいではないか、と。しかし繰り返すが、私は怠惰でありたいのである。そして怠惰であるとは欲望に純化するということだ。その境地においては、甘やかな身体のその奥に関係性が潜んでいるなどと警戒することはありえない。触れること、その快楽は、瞬間のうちにあるのだから。
甘い陶酔に沈むうちに気がつけば関係性に絡めとられる。怠惰な私の眼球の前にただ甘やかなだけの身体があったとすれば、私は悦んでその肌を撫でてしまう、それが怠惰であるということなのだ。この危うさを引き受けずして怠惰であることはできない。
可能なのは、あらかじめ怠惰であることを奪わぬ身体を、嗅ぎ分けることだけだ。
さて、アイドル――媚態へ純化された偶像――を写真に凍結する際に気を付けねばならぬことがある。それは彼女らの媚態のあまりの強さだ。媚び、誘い、その果てに疑似恋愛へ我々を巻きこんでいくほどの彼女らの媚びの強さは、今さら確認するまでもなく巷間に溢れている。ここで扱っている京佳の身体、媚びながら拒む、そのことによって究極的に媚びる、そういう身体はむしろ稀なのだ。
彼女の身体性によって私は怠惰であることを赦されている、とはいえ、この写真集には私に関係を――疑似恋愛を錯覚させぬ暗示が入り込んでいる。それはカメラの冷たさである。
たとえば随所に、彼女の乳房や尻のみをクローズアップする写真が入り込んだりする。しかもそれは場合によって、関係性の温床となりかねぬ写真に併置される。彼女がレンズを見つめたうえ腕を伸ばし、カメラ=視線者を抱擁するように見える写真と、同じページにあらわれもするのだ。彼女から顔が、人格の凝固物が、切除される。私は、それがただ身体であることの悦びを、改めて味わう。
ここにおいて、カメラもまた彼女の媚態を拒んでいる。さながら、萎びたまま夢精を待っている透明な男性器のように、彼女の身体を怠惰に欲望している。彼女の媚態は、どこへも行き着かずに宙吊りに、ただ媚態のままにあり続ける。拒みながら媚びる身体と、媚びを拒みながらまなざす視線、二重の拒絶があるのだ。層をなす拒絶の底で守られて蹲る享楽……。
写真集は最後へ向かうにつれて、笑みを抑えていく。つまり八重歯が姿を見せなくなる。柔らかさが氾濫する。あたかも眠り入る時の、現の喪失へ流れてゆく甘い静まりのように。あるいは射精の、それも夢に包まれたゆるやかな夢精の寸前の、悦ばしい虚脱。
しかし、幾度も柔らかさと鋭さを巡った私に、もはや彼女の身体をただ純粋に甘いものとして見ることはできない。極まる甘さに亡霊のように曖昧に溶け込む冷やかさ。私は怯え、安らぎながら、幼児という娼婦の肌を怠惰に撫でる。ただ身体が満ち足りるだけの、虚ろな恍惚が広がる。